哲学では稼げない理由。哲学者を逆手にとった稼げる人の行動原理を考察してみた。

雑記

私は学歴もなく、そもそも勉強が嫌いでしたし、ニーチェの事をどうこう言えるほどの知性を持ち合わせていないのは重々わかっているのですが、ニーチェは幼少期より天才と言われるほど頭が良かったことによって理解できてない事があるように感じます。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

わたしの兄弟も私とは違い学生時代から、生徒会役員を任されたり、学力診断テストで、全国100番以内?(遠い記憶なので定かではない)という成績で、地方大学ではありますが、主席で卒業するという、要するに”頭のいい”兄弟で、私はその事に幼少期は多少なりとも嫉妬していたのではないかと、今になって思うのですが、親たちもその成績のいい兄弟を「頭がいい」と褒めるものですから、比べられるのも嫌で勉強が嫌いだったのかもしれません。

わたしの話は置いといて、その兄弟は、保育や福祉の資格も取得しており、多少の医学知識を持っているので、ちょっと子供が怪我した時などには大いに役立つのですが、そういったように勉強のできる頭のいい人ですから、「知識上正しい事は正しい」と押し付けてくる傾向があります。

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知識の弊害

とはいえ普通に資格を取った程度ですから、医学にそれほど精通してるわけでもないのですが、下手にかじった勉強の知識により、「”障碍”が悪口ではない」と知っているものですから、(事実、障碍という言葉自体は悪口ではなく、いわゆる医学用語とでも言いますか、福祉用語とでも言いますか、要するに、”虫歯”と言ってるのと、何ら変わりはないのですが)ただその事実によって、誰でも彼でも(人の子でもわが子でも)平均的でない事に対し、「障碍があるのではないのか?」というのは、要するに、”相手に不快感を与える”という事がわかっていないのです。

それは先ほどの”虫歯”という通常考えうるものであっても使いようによっては、悪口にもなりえるでしょう。

例えば、自分以外誰一人虫歯がいなかったクラスで、”むしば”というあだ名をつけられた場合は当然悪口にも、ひいてはいじめとさえなりえるものです。

ですから、このニーチェも、『ツァラトゥストラはかく語りき』で人々に言っていた「サル以下だ」という表現は、今を、それを、いいと思って生きる人たちに、仮にそれが将来どれだけ後悔として現れるとしても、使うべき表現ではないのだと思うのです。

というより、その表現を使われ「話を聞こう」と思う人は少なくて当然だという事に、それが真実であるがゆえに気づけないのではないかと思います。

頭がよく、善悪の判断がつき、物事を深く理解しようとすることができるなら、人に強要せず、自分だけがそう行う事が望ましく、それが真実であるならば、少なかれ人はその行いに魅せられるでしょうし、本当に目覚めさせたいという気持ちがあるなら、そうやって目覚めさせるべきなんだと思う。

ですから、≪超人≫を目指したはずのニーチェはその思想が普通の人には通じなかったからか(病気が原因という説もありますが)、晩年≪狂人≫になってしまうという本末転倒な結果になってるように思います。

甘い言葉を巧みに使う稼げる人たち

「物は言いよう」という言葉が示すように、哲学者の多くの言葉は、真実であるからこそ非常に強い表現を用いていることが多く、それに対し普通の人は「余計なお世話」という感情を抱き、一方聞こえのいい表現に耳を貸します。

セネカは、誰かから命じられたものを一生懸命やってる事は”生きてない”というように表現してます。

ルキウス・アンナエウス・セネカ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

要するに、現代社会に置き換えると、本当にやりがいを感じるものではない職業で肩書をもらって出世する事に満足する人生は、踊らされており、真に生きてはいない。というように言い換えられると思います。

ですが当然この言い方をされて、良い感情を抱く人も少ないでしょう。

それに対し、投資家として成功した、ロバートキヨサキのお父さん(金持ちの方。*意味はこの方の著書にあります)は、「人の行動原理は恐怖で、その恐怖をやわらげる為に、福利厚生を求めて生涯働く人と、自由の為に働く人とがいる」(意訳)というように表現されております。

ロバート・トオル・キヨサキ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ですが、それもまた、「あなたは好きでその(やりたくもない)仕事をしてるのでしょう?」と本人に言うと、確実に嫌がられるので、そういった経営者のような人たちは、「君のおかげで社の売り上げが上がる」などといった彼らを満足させる言葉をかけるのだと思います。

この事をロバートキヨサキも理解しているから、著書の『ロバートキヨサキのキャッシュフロークワドラント』にも、「本当に幸せになりたかったら、投資家(及び資産家)になるしかない」と言われおり、

要するに、投資家のような人は、お金によってお金の問題を解決するから、他にやりたいことがあるなら、その人生の時間をやりたい事(家族と旅行でも良いし、医師免許を持つのなら、無償で途上国の子達を助けるでも何でも、法に反しない限りにおいて)に割く事ができるが、

福利厚生を求める人は、労働によってしかお金の問題を解決できないから、その仕事が好きかどうかも関係なく、定年前に私の父のようにガンで亡くなるような事になるとしても、辞める事ができずに、働くしかなくなる。という事を言っているのだと思います。

そしてそれは、人生半ばで病気になることなく、定年を迎える事ができればいいじゃないか、とも思えますが、その定年後も順風満帆とは決まっておらず、そもそもその年金のような福利厚生(社会システム)に皆が頼るから税金も上がるしかなく、多少給料が上がっても税金も上ってしまい、生活がたいして変わらないのは、そういったものに依存した結果という矛盾があります。

ですが、皆が自力で稼ぐ必要はなく、それこそ好きでやってるのかどうかが重要な問題で、ですから漠然と所属を選んでしまった場合、想定外の悪い事が起きた時に「そんなはずじゃなかった」となってしまうのだと思います。

結局それは、生きる上で”自由の為に生きる人と、福利厚生の為に生きる人のどちらが良いか?”という問題に、明らかに”自由の為(自由を得る為)に生きる方がよい”と言っているのですが、ですからそれを、ロバートキヨサキのお父さん(金持ちの方)はそういう表現を使わず、

それどころか、「彼らは福利厚生の為に働きたいんだよ(だから、彼らは給料払っていれば満足なんだよと言ってるようなもの)」といい、セネカやニーチェなどは「その生き方は愚かだ」というような表現を使っていて、その渦中にある人たちからは嫌がられてしまうのだと思う。

ですが、わたしが個人的に感じるのは、本当に親身に相手を思いやった表現は、セネカの「あなたは生きてない」であり、ニーチェの「サル以下だ」の方に感じます。

それは実際の所、現状況の中では当人は良いと思ってやっているのだから「余計なお世話」とほとんどの人が言うのでしょうが、一方、末期ガン患者を見てきた医者が、彼らの最後に言う言葉の多くが「もっと自分らしく生きればよかった」だ。という話に矛盾を感じます。

実際に私の父もガンになってからの日記を手帳につけておりましたが、その人生に後悔していたのは間違いありません。

それは当然の話で、亡くなった後にどれだけ「いい人だった」と言われようが、闘病中助けてくれるわけではないですから、もっと言うならば、どれだけ粗暴で口が悪かろうとも、病気を治してくれる人の方が有益で価値のある人です。

世界はマンガでないですから、当然そんな人はいませんが、というよりそんな人が存在しない真実の世界であるからこそ、現状を戒めるきつい言葉を”先にかけてくれる人”は価値のある人のように思います。

結局父も、このロバートキヨサキのお父さんの言う、”福利厚生の為に働く人”で、セネカのいう”生きてない人”で、ニーチェのいう”サル以下”であり、仮にセネカやニーチェの思想を少しでも理解し、人生を生きていたなら、それでも父はやはりガンになったとしても、そこに思う気持ちは違ったように思います。

ですから実際はロバートキヨサキのお父さんの言う表現は、易しい言葉に見える毒であり、ニーチェたちの言葉こそ毒舌でありながら優しい言葉なんだと思えるのです。

ただ、『ニーチェの警鐘』(適菜収 著)でも使われていた、B層という人たちには、その甘い言葉の方が聞こえが良く、ネットにより誰でも(こんな無学な私でも)情報が発信できてしまうので、その情報すべてが悪質でなくとも、良質なものとの区別がつきにくくなってしまっていますから、本当に正しくてもきつい言葉で表現するのでなく、正しい行い(生命に置いて)を人に強要せず、自身が実行し、理解するものだけが理解することが望ましい、というより、そうしかできないのだと思う。

それは結局、「サル以下だ」と本当にサルに言ったとしても通じないのと同じく、当然、人はサルではなくみんな同じ人間なのですが(宇宙人が混ざっていなければ)、ニーチェの求める≪超人≫には誰しもなれるものでもなく(当然この私も)、それがどれだけ愚かしい事だったとしても、皆が求めるものではありません。

それどころか、本人がその事で苦悩するのなら、それこそ≪超人≫ではなくなってしまうという、パラドックスが生じてしまっているように思います。

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サル以下いう者がサル以下?

ニーチェは少なくとも、間違いなく偉大な人であり、私レベルがニーチェの間違いなどというものを指摘できる立場ではないのですが、自分の求める理想には誰しもなれるものではないという寛容な心が無ければ、それは結局違う思想を本気で信じてる人が盲目に本気で言ってくることと同様になってしまい、「サル以下だ」と言われて「サル以下言う者がサル以下じゃ!」と子供の喧嘩と同等のものになってしまうのだと思います。

ですから、結局、どちらかが真の意味で正しい理想だとしても、それを人に強要することは、人に依存した結果であり、自身の理想に自分だけでも生きようとする努力が結局は自身に出来る事で、

結局同じことを言っていたとしても「あなたは好きでその仕事をしている」という表現ではなく、「私は好きな事で働いている」と言い換える事で、人は興味を抱くのだと思います。

ですから、「あなたたちは生きていない」であるなら「私は生きている」であるべきで、「あなたはサル以下だ」ならば「私は真の人になった」という方が、望ましい表現であり、人が自分の理想でない事に自分自身が苦悩することもないように思います。

結局「他人の事は知ったことじゃない」とも言えなくもないのですが、そうでないのならば、「あなたはサル以下だ」と言われたことにこそ善意を感じ取り、「社の為に頑張ってくれたまえ」にこそ、疑いを持つべきだと思う。

哲学者も金持ちも言ってる事は一緒

結局、哲学者の言っている事と経済的成功者は同じことを真逆の表現を用いていっているように思います。

とはいえ、少なくとも、本人が給料が欲しいと思って働く人に給料を与える投資家はその願望をかなえており、

逆にニーチェは、「そうなりたくない」という人に超人を強要するのですから、嫌われるのはニーチェの方なんでしょう。

セネカは『生の短さ』の中で「荷物は鈍足な馬にもたせればいい」というような事を言っておりました。

これは、誰かのやらなければならない事は、その表現のまま”誰か”にやってもらえればいい。という事で、それはものすごく悪口にも見えるのですが、そうではなく、「誰かのやらなければならない事は誰かにやってもらい、自分のやらなければならない事は自分がやればいい」という事なんだと思います。

ですがこうできないのは結局のところ、自分のポテンシャル以上にお金を欲するから、やりたくもない事でもやるしかない結果に表れてるのだと思います。

現に求人広告でも、「高収入!週給最低5万から」等というキャッチに興味をもち、反対に、「月3万以下可能!出勤自由」に通常(主婦などで所得を抑えたい場合以外に)興味を抱かない事からもうかがえます。

ですから、そこに着目し、人にお金を出す事のできる人(投資家)が稼ぐこともでき、その資金が無ければ、自身の行動を価値に変えて(多くのブロガーの収入はこのタイプに思う)収入を得るか、そのどちらのリスクも背負いたくない人は、労働で収入を得る事になるのだと思います。

まとめ

哲学者の目指す所は全人類の幸福のような、素晴らしい事で、そしてそれが叶わない事だからニーチェのように絶望し、

お金の為に働きたい人にお金を出す投資家は、その人たちに喜ばれ、かつ自分自身も自由を手にします。

そして当然人は「サル以下だ」とは言われたくないですし、「お前が今月の売り上げ1番だよ!」と褒められたいのだと思います。

少し語弊があるので、言い換えます。

人は幼少よりまず親に褒められたく一生懸命言葉を覚えて、学校に行くようになり先生に褒められる為に必死に勉強し、そして社会に出ると、上司や社長に褒められたくなるのだと思う。

結局同じことを言ってるように見えますが、そういった事から、ある種褒められたいのは人の本能なんではないかと思うという事です。

ですから、今までやってきたことを全否定される言葉など通常 人は聞きたくないというのは、(それがどれだけ愚かしい事であったとしても)当然の結果になるのだと思うのです。

要するに人がどうあれ、ニーチェのように超人を目指すべきというなら、当人がそれを目指す努力をすることが自分のやるべきことで、

ロバートキヨサキさんたちのように、投資で人に働いてほしいと思うなら、それだけのお金を用意することが自分のやらなければならない事であり、

彼らのどちらが本質は素晴らしいか?と言われたら、哲学者の方かもしれませんが、それもまた人の価値観でしかなく、投資家はお金という形でその人たちの希望を叶えてるのも事実です。

ですが、そのどちらも結局他力本願であり、どちらに依存しても結局のところ方向の違いでしかなく、依存という部分では変わりはないように感じます。

ですから、何かを実行する際、それを哲学者が愚かというにしても、何かを買う際、経済学者がそれを浪費というか消費というかなども関係なく、「自分がやりたいと思う事を自分がやる事で自分が幸せになり誰かのやらないといけない事を”誰か”ではなく自分がやらなくてはならなくなる事が、幸せではない事なんじゃないかと思います。

なんか話がややこしく?なっちゃいましたが、どうせ人は何を成しても結局『孤独』(ニーチェ談)で、誰も人生の責任なんて取ってくれないんですから、全ては自由意志の中で、人がどういうかではなく、自分で決断して、哲学者になりたかったら哲学者になればいいし、給料欲しかったら給料の為に働(はたらく)けばいいし、自由が欲しかったら自由の為に動(うごく)くしかない。という事なんではないかと思います。