【解明】労働者を辞められない理由。哲学者を逆手にとった経営者の行動原理。

”真の”働き方改革
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子供の頃に親などからよく「働かざるもの食うべからず!」等といわれ、お手伝いした思いでがあったりしますが、これは資本主義的考えではない、古い意識ではないかと思えます。

事実、若かりし頃に、勉強よりヤンチャしていたような人でも、親の資金であったとしても、先祖から受け継いだ土地を切り売りでもして、資金力さえあれば、一生懸命勉強し、資格を得たけれど”資金力がない人”に、資金提供し”共同経営者”といった方法で経営者にもなれるのが資本社会であり、これは悪事ではないからです。

 

そういった現実社会で、

『なぜ真面目でも稼げないのか?どうして労働は報われないと感じるのか?』

といったような事を題材に、哲学者のような賢い人と、経営者のような資格などなく稼ぐ人との違いや共通点から真に稼ぎえる方法を解明していきたい。

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知識の弊害

まず始めに、この問題を解明するにあたって、これが前提になってくるので、多少身の上話になってしまいますが、この話から進めさせていただきたいと思います。

 

私の兄弟は、学歴皆無の私とは正反対で幼少時代より賢く、成績もいつも上位で、地方大学だけれど特待?だか何だかで行き、主席で卒業した(らしい)”所謂お勉強ができる人”で、福祉関係の資格も取得しており、多少の医学知識を持っているので、ちょっと子供が怪我した時などには大いに役立つのですが、反面、“知識上正しい事は正しい”と押し付けてくる傾向があります。

具体的には「”障碍”が悪口ではない」と知っているものだから、誰にでも(人の子でもわが子でも)平均的でない事に対してすぐに「障碍があるのではないのか?」と言ってしまう。事実、障碍という言葉自体は悪口ではなく、いわゆる医学用語とでも言いますか、福祉用語とでも言いますか、要するに、”虫歯”と言ってるのと、何ら変わりはないのですが、、)

それがどれだけ医学的に間違えのない発言であったとしても、『相手を不快にする発言になる』という事がわかっていないのです。

 

ニーチェは著書『ツァラトゥストラかく語りき』で、聴衆に向かい「(普通の)人間は猿よりも猿だ」といった表現を使っていました。

 

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

私の兄弟をニーチェと比べるのもおこがましいのですが、ニーチェもまた、その発言が普通に生きる人たちを不愉快にするという事に一般認識を超越した真実であるがゆえに気づけないのではないかと思えます。

 

今を、それを、良いと思って生きる人たちに、仮にそれが将来どれだけ後悔として現れるとしても、使うべき表現ではなく、というより、その表現を使われ「話を聞こう・ついて行こう」と思う人は少ないでしょう。

 

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頭がよく、善悪の判断がつき、物事を深く理解しようとすることができるなら、人に強要せず、自分がそう行う事が望ましく、それが真実であるならば、その行いを理解し、その真実を追求したいという気持ちがある人だけが、気づいていくものなのだと思う。

要するに教えてわかるようなものではない。

 

なので、≪超人≫を目指したはずのニーチェは、その思想が普通の人には通じなかったからか(病気が原因という説もありますが)、晩年≪狂人≫になってしまうという本末転倒な結果になってるように思う。

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言葉を巧みに使う経営者たち

「ものは言いよう」という言葉がありますが、哲学者の多くの言葉は、真実であるからこそ強い表現を用いてしまい、それに対し普通の人は「余計なお世話」という感情を抱き、一方聞こえのいい表現に耳を貸してしまう。

 

哲学書セネカは、『生の短さについて』の中で、

”誰かから命じられたものを一生懸命やってる事は生きてない”(超訳)

というように表現していました。

ルキウス・アンナエウス・セネカ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

これを現代社会に置き換えると、

『やりがいも感じない職で肩書をもらって出世する人生は、真に生きてはいない。』

というように言い換えられるように思う。

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ですが、これもまた、この言い方をされて良い感情を抱く人も少ないのは間違いないと思う。

 

それに対し、投資家として成功したロバートキヨサキさんは、著書『ロバートキヨサキのキャッシュフロークワドラント』にて、

「人の行動原理は恐怖で、その恐怖をやわらげる為に、福利厚生を求めて生涯働く人と、自由の為に働く人とがいる」(意訳)

と、『”金持ちの方の”お父さん(意味はこの方の著書にあります)から教わった』といったように書かれてありました。

 

ロバート・トオル・キヨサキ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

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ですが、この事実もまた「あなたは福利の為にその(やりたくもない)仕事をしてるのでしょう?」と言うと、確実に嫌がられるので、経営者のような人たちは、そうは言わずに、「君のおかげで社の売り上げが上がる」などといった言葉に言い換えているように思う。

 

けれども、これで本当に得ている”のは経営者、及び、投資家であることは誰しもがわかる所。

 

この事実をロバート・キヨサキ氏ご本人も理解しているからこそ、上記著書で「本当に幸せになりたかったら、投資家(及び資産家)になるしかない」と、ストレートに表現している。

 

なれるかどうかは別としても、投資家のような人は、お金によってお金の問題を解決するから、やりたいことに人生の時間を割く事ができるが(遊びでも、労働でも)

福利厚生に生きる方法は、その仕事が好きかどうかなど関係なく、労働(時間)によってお金の問題を解決するから、(私の父のように定年前にガンで亡くなるような事になるとしても、)辞めるという選択肢はなく、生涯働くしかなくなる。というのが事実上”普通程度の家庭に生まれた殆どの人”の生き方になってしまう。

ただその生き方に福利がないわけではない。

しかし、そこで得られる福利は、失業した際に、生涯仕事に行くという契約のもとで受け取れる”失業手当”や、働き続ける限りにおいて”病気の検査”が受けられることであり、そもそも人生半ばで病気にならない保障もなければ、良き伴侶に出会える保障もなく、仮に無事定年を迎えられても保障されるのは最低限の生活であり、”幸せそのもの”というわけではない。

更には、年金やその他充実した福利厚生(社会システム)に頼れば頼るほど税金も上がっていき少子化の上、景気も良くないのに、物価だけは上がっていくのだから)、結果、長い年月をかけて多少給料が上がっても物価なども共に上ってしまい、一向に生活が良くならないのはそれに依存するからという矛盾を産んでしまう。

 

なので、会社に所属する事のみを正しいと思い選んでしまった場合、順風満帆に人生を送れればいいけれど、私の父のように人生半ばで”末期ガン宣告”のような、想定外の悪い事が起きたら「そんなはずじゃなかった」と後悔に繋がっていくのは間違いない。

 

結局それは、生きる上で”自由の為に生きるのと、福利厚生に生きるののどちらが良いか?”という問題に対して、明らかに”自由の為に生きる(自由を得る為方がよい”と導き出せるのですが、

それを経営者などは、”福利厚生を得たい人たち”に実際に給料を出して雇い、それに対し、セネカニーチェなど哲学者たちは「その生き方は愚かだ」というような表現を使ってしまうので、その渦中にある人たちからは嫌がられてしまう事になり、結局、実際に給料を出してくれる投資家や経営者の方がありがたい存在となり、感謝さえ感じる人になる。

 

福利厚生に生きた結果

セネカの「それは生きてない」といった表現や、ニーチェの「猿より猿」といった表現は、現状、当人が良いと思ってやっているのだから「余計なお世話」とほとんどの人が言うのでしょうが、

そうなると、一方、末期ガン患者を多く見てきた医者が、「彼らの最期に言う言葉の多くが『もっと自分らしく生きればよかった』だ」(ソースは忘れました)という話に矛盾を感じてしまう。

 

”典型的高度成長時代の会社人間だった私の父”もガンの闘病中に日記をつけてましたが、その内容にはシンプルに「もっと生きたい」といった人生への後悔のようなものが書かれてありました。

 

生前の父は、普通のサラリーマンで、特別良い父親と言うわけでもないですが、仕事にはちゃんと取り組むタイプで、地方の会社ですが、それなりの役職にまで出世しており、お葬式にも、地方役所のお偉いさんなども参列していました。(上記の”お偉いさん”は父の葬式に参列していたにもかかわらず、次の年、父の名で<所謂政治活動的な>手紙を送ってきていた)

 

亡くなった後にどれだけ「いい人だった」と言われようが、闘病中助けてくれるわけではなく、もっと言うならば、どれだけ粗暴で口が悪かろうとも、病気を治してくれる人の方が有益で価値のある人。

ただ、世界はマンガでないので、当然そんな人はいません。

というよりそんな人が存在しない真実の世界であるからこそ、現状を戒めるきつい言葉を”先にかけてくれる哲学者”こそ本来価値のある人のように思える。

だからこそ哲学書(や般若心経のような本)はいつの時代でも価値のある言葉として評価されているのであり、そう感じなければ、彼ら(経営者・資本家)の評価の為にいつまでも競争させられ続け、やりがいなど関係なく、福利(幸福)の為のはずなのに、義務感で出世する事になってしまうのだと思う。

 

結局わたしの父もまた、このロバートキヨサキのお父さんの言う、”福利厚生の為に働く人”であり、セネカのいう”生きてない人”であり、ニーチェのいう”猿より猿”であったのだと思う。それを、ガン末期宣告を受けた後では”後の祭り”になってしまう。

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哲学者も経営者も同じことを言っている

実のところ哲学者と経営者(及び投資家)は同じ部分を理解し、真逆の方向で実践しているだけのように見える。

 

経営者は、”『今月の売り上げ』というノルマ”を与え、達成による一時の高揚感と(幸福と=ではないが)金一封という報酬を与えている。

 

しかし、それで喜んでいるのは、紛れもなく貰う方(自分自身)であるのは事実であり、その金一封で欲しいものを買うのもまた”自分自身”だ。

 

すなわち、与えられる側は、生涯与えられて生活するのだが、そもそもそれを投資家や経営者が頼んだわけではなく、どうあれ自分自身で選んだことになる。

そこで得られるのは一定の給料や休日、保険などであり、それがまさに”福利だ”という事。

幸福と利益。希望どおりになって生活などが落ち着くようにすることと、その人のためになること。

引用:コトバンク

 

「鳥篭の鳥」で例えるならば、一番きれいに囀(さえず)れば丁重に扱われ、より多くの餌を与えてもらえるが、それはまさに運と競争の世界であり、囀れなくなれば価値もなくなり見捨てられてしまう。(事実、定年後にそのまま働き続けても、給料は下げられたりする。)

なので、生まれ持つ容姿などを含む運や、労働力で勝ちうる体格で劣る場合、それ(その仕事そのもの)に生きがいを感じないのならば、給料や、役職に生きても、将来幸福に感じるかは保証されているわけではなく、各人の問題になる。

 

やや話がずれてしまいそうなので、元に戻すと、投資家たちが『福利厚生の為に生きなさい』と言ったわけではなく、自分自身が『福利厚生に生きよう』と思った。という事実。

そして、その福利(要するに給料)を実際に与えているのは経営者(投資家)であるという事実。

 

ただ、実際問題、巨大グループ企業などを調べると、その多くがそもそも資産家の家庭であり、個人の努力で成しえているわけではなく、一般労働階級の家に生まれた多くの人は、一般的教育の中で、食べるため(生きるため)に”人の会社で働く道”しか示されていないので、そこから抜け出すのは特に至難の業になってしまう。

 

哲学者はその矛盾(のようなもの)を指摘するが、投資家・経営者たちは「(面接等で)あなたが働きたいと言ったでしょう?」と、”お給料で雇う”という結論を導き出している。

 

すなわち経営者たちが使う『君のおかげで社が潤う』等といった表現は、哲学者の言う『その生き方は愚か』と同じことを真逆に利用しており、出世した先に幸せを約束しているわけではない。

とはいえ、自分自身(雇われる側)がそれを幸福の対価だとしているのだから、経営者・投資家たちもウソはついていないことになる。

すなわち、哲学とビジネスでは同じ部分を指摘しているにもかかわらず、哲学では稼ぎえないのは、人を批判するからであり、経営者が稼ぎえるのは、(どこから収入を得ているかは別として)ともかく、その収入の一部を労働者に還元するから労働もより意欲的になり、更に収入が得られる仕組みのように思う。

わたし自身はニーチェたちの言葉こそ毒舌でありながら優しい言葉なんだと感じるけれど、とはいえ、経営者のような人たちもまた、大衆を騙してはおらず、その大衆自らが”雇われたい・出世したい”と言っているのだから、事実として福利(給料)を与えている経営者たちの方こそ、現実的には労働者に貢献しているとも言えてしまう。

すなわち、”仕事が好きではない(本当に嫌だ)”とまで思うのならば、”福利”が成立しておらず、『福利を与える経営者側』か『「この会社で働きたい」といった労働者側』のどちらか(もしくはどちらともが)がウソをついてる事になる。

好きな事を仕事に

スティーブ・ジョブスのような世界屈指の経済的成功者もまた、「好きな事を仕事にしなさい」(何かの本で見た)と言ってるのだから、経済的成功者はウソをついているのではなく、すなわちこれは、”自身で判断したもの”と言うほかなく、「好きでもない仕事でもどうしてもやらなければならない理由」は福利を対価とした先に束縛されるもののように思う。

それに、社会では(特に学校では)不向きな事を頑張ることを美徳としていることが多く、、であれば、『将棋のプロは野球を、野球選手は将棋をやるべきだ』という理屈が通ってしまう。

しかしながら、それは考えずとも分かるとおり、”明らかにムダ”であり、やはり、自分の中で一番得意な事(人と比べてではなく)のほうが、自分のためにも社会全般のためにも大きな成果が出るのは間違いない。

なので『好きな事をする』は絶対に必要な事であり、それを始めた時やっと”苦しいこと””楽しい”になるのだと思う。

嫌いな事で起業する人なんてまずいないのは調べずとも間違いがなく、特に経営など学ぶ機会もない一般家庭の場合、ビジネス(特に今では某チューバー等のネットビジネス等)を始めてもうまくいかないのは”好きでも得意でもないのに、お金目当てで始めるから”ではないかと感じる。

ただ、『好きな事をする』とは、”悪いことでも好き放題できる”のではなく、社会に与える良い価値を伴って初めて好きな事から選べるのだと思う。

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欲すればまず・・・

これは、”宗の教え”的なものではなく、結果論として、少なくとも給料が欲しいと思って働く人に給料を与える経営者はその願望をかなえており、与えた給料で何を買うかは個人次第になる。

当然、一生懸命に働いて得た給料なのだから、趣味〈バイクでもゴルフでもゲームでも〉に使うのは全く悪い事じゃないが、けれども、結果論として経済的成功者は、そのお金を人に与える事で労働者より得る事に成功している。

そこには家庭環境、すなわち生まれた家が資産家かそうでないかにかかわる部分が大きいが、”給料を貰う人”より、”給料をあげる人”のほうがより稼げるという事実をまず知らなければいつまでも貰う方になってしまう。(それは福利であり、悪いとは言っていないが・・・)

それを哲学者が矛盾として指摘するように「生きてない」というか、福利を与えて、雇う側になるのも当然法律違反でもない。

 

ともあれ、経営者が労働者を褒めるのは、自分ではやりたくない労働の部分を代わりにやってくれるからであり、年商ウン億の大手企業の経営者のような人が、土木のような最もハードな労働者にこそ「ご苦労様です」と労(ねぎら)い、深々と頭を下げるのは、本意からであって、これもまたウソからではない。

あとは雇われる側がそれをどう捉えるかなのだと感じる。

すなわち「君のおかげで社がウンヌン」という言葉の真意。福利と捉えるか、騙されてると捉えるか。

 

そもそも会社は経営者が好きで(利益目的であっても)興したものであり、労働者の幸せのためではない。だからこそ”福利”が存在し、そのために働く人がいる。

 

ただ、”摂る人”より”与える人”のほうが社会の役に立ち、”批判する人”より”肯定する人”のほうが人に好かれる。

 

そこが、資格をもつ稼げない賢い人と、資格など無く稼ぐ経営者側の違いなんだと感じる。

とはいえ、労働では稼げないということは無く、自分のポテンシャルが一番発揮できるものがどれかであり、

(力でも知識でも)労働力があれば、労働者として退職金9000万ドル(元Gグルの社員)という”最大限の福利”もありえ、、起業でこそ発揮する人は200億ドルもの資産を残す(某ジョブス)事もありえる。

それは、お金の価値ではなく、社会貢献の価値(地位=ステータス)が金額として表れているのであり、先にお金だけ欲しても資金力か余程の才能が無い限り稼ぐのは不可能だと感じる。

だから、”もっていない”からこそ、まず先に、”欲すればこそ与える”しかないのだと思う。

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貧乏から抜け出す方法の答え

上述を踏まえて、

一般労働者の家庭に生まれると、より稼ぎがたいのは、哲学者と経営者との違いのように、真面目さ・賢さから来るものではなく、「資金がそもそも無い」という現実問題も大きくあるけれど、お金がないからこそ浅ましくなり、浅ましくなればなるほど私欲的になり、私欲的になればなるほど価値提供から離れてしまい、人に(特にタダでは)与えたくないのに自分だけは欲するから、より負のスパイラルに陥ってしまっているのだと感じる。

とはいえ、多くの人はそんな資金のある資産家ではないので、人に雇われて福利で生活するのが一般的になるのだけれど、「福利では幸せが叶わない」と思うのなら自分で作るしかない。かといって、人に給料を出す事などできない。

そのような、資金が無いのならなお更、お金を得るためには、私欲を出来るだけ切り捨て、人に役立てる事が必須であり、それをブログ(サイト運営)や、今ではユーチューブ等なら、少なくとも始めるのに資金が殆どかからないのだけれど、どの方法にしても、価値の提供でないといけない。(シンプルにいうなら価値の無い物は記事でも動画でも誰も見ない)

要するにその部分(価値提供の部分)を、お金のある資産家はお金で解決していて、その事を哲学者のような人が批判したりするのだけれど、これは法律違反ではない。

 

労働が報われないかどうかという問題は、福利が叶ってるかどうかであり、即ち、必ずしも労働だと報われないわけではない。とはいえ、これに漬け込んで、労働者に無理を押し付けてる企業が多くあるのも事実なのだけれど、雇われた側が、貰った給料で私欲を叶えているのもまた事実。

それはいけない事ではないのだけれど、私欲的なほど稼げないのはほぼ100%と言っても間違いないのだから、まずは損得勘定を抜いて、他者に、社会に、いかに価値を与えられるかを考えることが先決であり、そうして、お金がないのなら才能、才能がないのなら運、運がないのなら時間(即ち時間)をかけて、価値を与えた先に、より大きな見返りも期待できるのだと思う。

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おわり

会社に尽くし、負債を肩代わりさせられ、ノイローゼでガンになり早々に他界したような父親を持つわたしの場合、どうしても経営者がウソをついてるように感じてしまうけれど、投資家・経営者は、お金の為に働きたい人に”自分の資金から給料を出している”のは事実であり、そうなるまで頑張れとは一切言われていないのも間違いない。

なので、お金を稼ぎたい(欲しい)と思うのに、自分で頑張るのが正しく、逆に、経営者のようにお金で解決(雇う)するのはズルいと思うのなら、物事を取り違えてしまっているのだと思う。

わたしの親は『ホームレス中学生』ばりの幼少期を生きていることもあり、損得勘定が強く、何事にも利益を求める傾向があります。

それは、見返りを求めてはいけないと言うことではないのだけれど、その為にもまず、見返りを求められるだけの価値をどのような形でも持つのが重要で、すなわち、ブログ(サイト運営)であれ、ユーチューブであれ、単に発想力があれば稼ぎえるのではなく、努力のみで稼ぎえるのでもなく、賢さでもなく、価値提供を考えた先にこそ見えてくるものなんだと思う。

 

これが綺麗事だとは自分自身も理解してるし、社会の本質は大なり小なり人と争うことで収入を得てるのはわかっている。

けれど、それを認めてしまうということは、部下を家来か何かだと勘違いしたような横暴な上司や、多少のブラックなら(ブラックといってるのに)”マシ”と受け止めなければ大人じゃないといった風習や、当然のようにまかり通るサービス残業全てを良しとしてしまう事になり、より社会がギスギスしてしまう原因になる。

例えるなら、学生時代の部活動で”新入生は上級生のパンを買ってこないといけない”といったような多かれ少なかれあったような悪しき風習を「自分もされたのだから、自分もやっていい」と思い続けてしまえば、いつまでたっても終わらなくなる。

当然、競争し成績を残し成功するような、スポーツ選手や芸能人のような人全てを批判するわけではないし、そのような人の中に素晴らしい人がいるのも事実なのだけれど、それでは一位しか報われなくなるから、楽しい人生を目指すのなら、順位がどうあれ、その事(仕事、及び、活動そのもの)が好きかどうかが重要なんだと思う。

追記

それでなくてもいつ終わるかもわからないコロナの影響もあり、理念のある中小企業より、単純に資金力のある収入の安定した大手企業でないと生き残りがますます厳しくなっていきそうな社会で”働く価値・稼ぐ理由”を求められるなら、それがいくら稚拙な発想であってったとしても、人に役立つ精神を先だと考えたい。

201128_編集 201215_微編集 201224_冒頭追記、一部編集 210313_加筆 210124_一部編集

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