父の《最期の言葉》は「ありがとう」ではなく「ごめん」だった。正しく生きたはずの父の何が”間違い”だったのか

模索期…
ページ内にプロモーション(広告)が含まれております。

テレビを一切見ない私は、有名人の”さくらももこさん”や”山本KIDさん”が今年ガンで亡くなっていたというのをネットニュースで最近知りました。

山本KIDさんは格闘家で有名な方でしたが、41歳という若さで亡くなっていたとは知りませんでした。

漫画家や格闘家もそれぞれ苦労はあるでしょうが、好きで選ぶ道なのは間違いなく、その中で成功されても結局ガンになるという事は、自分らしく生きることと健康はなんら関係ないという証明に感じます。

父も40後半でステージ4を宣告され、体中の転移から手術は不可能で、余命1年といわれ、5年くらい(後日、母に確認したら、告知後2年だったとの事、感覚的にその期間が長く感じられ、5年くらいだと思っていた。)闘病ののち亡くなったこともあり、本当はこの”ガン”という言葉も見たくもなく、だから本当はこういったニュースは特に避けているのですが、たまたまこの言葉を見かけると、よく亡くなった父の夢を見てしまいます。

スポンサーリンク

ブラック企業に勤め、40代でガン宣告。

父は、いわゆる古いタイプの父で、たまにひょうきんな一面も見せるのだけれど、寡黙で、家事は一切しないし、子育てもかかわっていたとは言い切れない。

休日はテレビの前に横たわり、決して悪い人ではなかったのだけれど、気に食わない事があるとほんとにちゃぶ台をひっくり返すようなタイプの父。

ただ仕事は熱心で、夜も遅くまで残業し、子供時代のわたしは一週間朝の食事以外顔を合わせないこともよくあった。

結局その会社に負債の責任を早期退職金という形で取らされることになるのだけれど、生真面目な父はそんな会社を訴えるような事もしなかった。

その企業名は父の名誉のため、あえて*あげることはしないが、「ご立派に上場してる企業でもそうある」という事実だけはわたしの心に刻まれた。

(*補足:下手に名を出すと「名誉棄損だ」とか、逆に「公表しないから父の金返せ」なんて言おうものなら「恐喝だ」と言われかねないし、ならば、弁護士に相談するという合法な方法も、結局、”上場企業お抱えの優秀弁護団”に、ビンボー個人ではどうせ争えない。という公平な社会)

 

父はド田舎の生まれで、その年代ではかなり貧しい子供時代を送ったようで、そんな幼少期に培われた根性が、どんな理不尽を強要するブラック企業でも文句ひとつ言わず必死に働けたのだと思う。

夢の中の父は、毎回、末期までいっていた病状が奇跡的に回復し、家に帰ってきていて、でも結局何するでもなく、いつものようにただテレビの前にごろんと寝転がってるだけという構図。

 

わたしもその父に何を話しかけるでもなく、ただ横に存在を感じる程度。

生前、唯一父がわたしとかかわったのは、地元の野球クラブで、どうやら野球は好きだったのか、定期的に行われる地元の大会に補欠で出場もしないわたしを見に?よく来ていた。

試合後の帰路も別にたいして会話なんてない。

 

明るく楽しい父ではないし、怒ると面倒くさい人で、父の動向に一々気を配っていたりして、出張で家にいない日の方がかえって家の中が明るかったりもする。

 

そんな父も40後半でステージ4を宣告され、5年くらい(2年間)闘病ののち、最後はホスピスで痛み止めの点滴で意識も全くなく、わたしが手を握ってる中で亡くなった。

 

夢に出る父は、結局、生前と変わらず、鬱陶しくただそこにいるだけなのだけれど、それが逆に心地好くもあったりする。

何も変わらず、ずっとそれが続くのなら、就職先の多少の理不尽には、それもまた人生として感じるかもしれない。

現実は、必死に努力しても人生はままならず、助かるようなものじゃないという不条理。

そうなってからではもう遅く、結局自分らしく、漫画家や格闘家のような生き方をしても、どちらのみち末期など宣告されれば納得なんて出来ようはずもない。

ましてやブラック企業に勤めた所で、達成感なんてあるはずもない。

 

最期、もう余命も長くない父に会いに、田舎から親戚一同が集まって来て、最期の最期に目を覚ました父は、私や集まった親戚に対し「ありがとう」という感謝ではなく、ひとりひとりに「ごめん」と謝罪していた。

多分これは私たちに対してではなく、自分自身の行なってきた”普通という日々(その概念)の後悔に対して謝っていたんではないかと感じる。

ど田舎にひとり母(私のおばあちゃん)を残し街に出て、仕事のどんな理不尽な要求にも耐え、小さいながらでも家を買い、必死に働いた父は最期に報われたのだろうか、、

病気は運もあるからどうしようもないかもしれない。お金が要らないなんていうつもりもない。けれども、物質主義的資本主義に捕らわれ、”人格さえ否定することも耐えて当然”のような社会で必死に働き何を得られるのか?

私は父のように最期を迎える時、人に謝るような人生は生きたくない。

人生楽しいことばかりじゃない事くらい理解してる。けれども、人の会社で必死尽くしても、それが結局私欲の為だったら幸せに感じなくなるのだと思う。

私は人に怒鳴られてでもお金なんてほしくないし、感謝から得たいと思う。

それは簡単な事じゃないし、婚期も逃すかもしれない。でもそうやって生きれば、漫画家や格闘家のような特別な成功なんてしなくても、きっと最期後悔することなく「ありがとう」といえる人生になるんだと思う。

 

そんなままならない世界だから、常に自分らしくありたいと、父の夢を見るたびいつも思う。

タイトルとURLをコピーしました