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【リベラルアーツ不足】我が子を簡単に発達障碍と言ってしまう親に問題がある

学歴だけはそれなりにある親戚が、勉強のあまり得意ではない自分の子を「頭が悪い」とか「発達障碍があるのじゃないか?」と簡単に言ってしまう言動は、いい結果にならないと思う。

本当に障碍の場合、早めのケアで多少でも本人の苦労を減らす事ができるかもしれないけれど、中途半端に学習した障碍の知識によって、学校の付ける点数の高低を、普通か障碍かの指針にしてしまっている節がある。

わたしの見る限り、その子は機転も利くし、面白い話もするし、物事を順序だって説明もできている。

ただ落ち着きは確かにないけれど、それは小学生ならわんぱくで当然の年頃だと思うし、落ち着いてフロイトでも語る小学生の方が末恐ろしくもある。

そういった意味でも勉強が多少できないだけで、普通の範疇だと思う。

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学校の点数で優劣はつけられない

「障碍」と言う表現自体が悪口でないことは最近の人は意味的には理解できてる人も多いと思う。

けれども感覚の部分で、それを他人から言われていい気持ちがする人は少ないのも事実だろうし、もはや、中途半端な学習によって「障碍は悪口じゃない」と、誰でもかれでも、平均点以下や落ち着きのない子に「あの子は障碍じゃないか?」と言ってしまう方がモラルの欠如のような、理解力の低さの現われのようにさえ思う。

ただ本人が勉強はでき、学習でいい成績を収めて卒業しており、それが災いし「自分の言う事に間違いはない」と思い込んでしまっている。

勉強の大事さは非常に説明が難しく、子供から「なぜ宿題をしないといけないのか?」を完璧に答えられる人は存在しない、というか、その答えがそれぞれ過ぎて、自分の100%の答えが、相手の100%になりえない。

仮に掛け算ならば、「掛け算がわからないと買い物もできない」と言えるかも知れない。

そうなると「サインコサイン」はほとんどの人が必要ない。

それもまた「必要になる職業がある」といえるのだけれど、その職業と幸せは同一ではない。

なぜか親は、とにかく勉強しろというけれど、その勉強の先がどこなのかまでは、ほとんどの親や先生に答えられる人は見たことがない。

というより、学校の先生の場合、自分が学校の先生になりたくて、勉強して夢をかなえ学校の先生になってるのだから、その人が教える「勉強すれば幸せにもなる」は、学校の先生という職になりたい場合限定だと思う。

その前提の中で、学校の勉強がどれだけできるのか?は、どれほどの意味を持つのか?

そうやっていい成績で卒業して、朝から晩までやりたくもない仕事を必死にする”人(その子の親)”になってるのではないのかと思う。

自分が毎日楽しそうにやりがいのある職に就き、それを子供に見せる事ができてるなら、「勉強したからこうなれた」と見せる事もできるだろうが、給料だけは平均以上あっても、その代償は大きく、日々の生活や近所や親戚の建前に必死で、勉強のできない子を自分で見もせず、塾に任せきりなのに、成績が悪いと怒鳴りちらす。

それでもできないから、「発達障碍だ」などと言い出すしまつ。

確かに「勉強のできる子」というのは存在して、授業をきちんと受け、宿題こなすだけで、塾にも行かず90点以上取るような子もいたりするけれど、それは「学習速度」の問題であり、「学習深度」までは計れていない。

だから、勉強はできても「なぜそうなのか」と考えることはせず、だからこそ従順に「3+3=6」といわれれば、そう覚える事ができるのだろう、という一面もあるように思う。

とはいえ、物事は疑い出したらきりがない一面もあって、進学を決められた年で行うのが通例である今の制度では、「答えは出せるけれど、意味がまだ納得できてない」という理由で進学を先延ばしにすることはほぼありえない。

だから、「学習速度」が優先され、どうあれその能力に長けた子が「頭がいい」といわれるし、難しいとされる学校に進学できたりもする。

そしてまた、その子は「賢い」といわれるのだろうが、賢いといわれた先が自分の幸せに結びつかなければ、その言葉にも全く意味がなくなる。

もはや、「賢い」といわれ続け、自分の能力限界ぎりぎりの会社で「賢い」を演じなければならなくなり、勉強のできないわが子を怒鳴りちらすのなら、それのどこが幸せなのか。

そうであるなら、賢くなくて別にいい。

それは、その定義の話であって、本質的にはバカではない。

本当はその言葉もあまり好きじゃない。

そもそもそれは優劣で物事を考えるからであり、優劣を決めたがってる世界に自分もまた身をおく事になってしまう。

相手より自分の方が優れてると思いたいから、相手を見下すワードを使う。

 

 

そもそも人はそれぞれ得て不得手もあるし、”今”という限定された瞬間の社会で、たまたま大きな経済効果をもつ物と、そうでないものがある。(某チューバーとか)

 

だからこそ、本当に障碍である場合は、早めのケアで、できるだけその子の負担を少なくするしかないのだけれど、

その子本人の優れたものも当然あるし、ただそれが価値に結びつきにくく、要するに「それじゃお金が稼げない」といっている事になり、きれいごと並び立て「勉強できれば偉い人になれる」とか「尊敬される人になれる」とかいうけれど、その本質は、結局の所「お金の話をしてるに過ぎない」のだと思う。

そしてそれを労働でかなえるためには、より上等とされる大学を卒業するほうがよく、その先の就職先でも、常に競争で上にあり続ければ、それも可能かもしれない。

そこで勝ち続ければ、昇進もして、給料も増えて、尊敬もされる。

それが本人の幸せなら、それは素晴らしい事だけれど、その競争社会では1位がいれば2位がいて、99位も最下位もいる。

その発想の中では、学習速度のみが優先され、教えた瞬間に理解できなければ、「頭が悪い」と判断してしまう。

時速100キロで100m全力疾走できるから生き残った動物もいれば、ずっと木にぶら下がって代謝を抑えて生き残る動物もいる。

それと同じで、早く理解できる子もいれば、逆に遅くても深く理解する子もいる。

中には”早く深く”理解できる子もいるだろうけれど、だからってその子が大人になって”正しく、偉い人”なるとも限らない。

世紀の天才といわれる人だって、理解力が常人より早いとは限らず、時間をかけて物事を深く考えた結果の人たちもいる。

だから本当に「賢い人・偉い人」になって欲しいと思うなら、「学習速度」的判断で通知表やテストの点を見てはいけない。

だから、その子の親は結局「お金が稼げるか稼げないか」の話をしてるとしか言いようがない。

別にお金を稼ぐ事が悪いといってるわけではなくて、言ってる事が幸せ」についてなのか、お金を稼ぐ」についてなのかを自分自身が理解しておかなければ矛盾が生じ、怒鳴られる子供も理解できないに決まっている。

例えば、本人が「ピアノコンクールで優勝したい」と思っているのなら、先生の罵声の先にはコンクール優勝があって納得もできるだろうし、出来なければ、優勝が遠のくだけの話。

でも、親が「コンクールで優勝させたい」と思い練習させて、本人にやる気が無いからどれだけ怒鳴られてもあまりうまくならず、結局優勝さえ出来ないとなると、本人にはただの苦痛にしかなりえない。

ようするに「好きでもないもので1番になれるわけが無い」のが当然。

だから、「勉強できれば良い所に入れて幸せになれる」といわれても、今現在、持ち家があり、まともに食事ができ、最新ゲーム機もあって、たまに旅行でも連れて行ってもらえる家庭で、どうして勉強が必要なのかわかるはずもない。

そして親は、その幸せ”とされるもの”を維持するために、「必死にやりたくない事でもやる事が大人の仕事」と自分自身にも言い聞かせなければならなくなる。

 

話が二重になってしまうけれど、「自分の子を頭が悪いんじゃないか?」とか言ってしまう本質の中に、「自分たちは幸せなのか?」が関係してきて、「将来、やりがいも感じない仕事をするために勉強するのか?」と聞かれて答えられるのか?と思ってしまう。

それは「出来ない事はやらなくていい」とか「好き放題やっていい」ということではなくて、かのスティーブジョブスでも「好きなことを仕事にしろ」(*以前何かの本で読んだ)と言っていたのは、結局好きなことじゃないとやりがいを感じなくて当然で、やりがいもないのに、どうしていいものが作れるのか?という本質でいっていると感じる。

 

 

確かに、だれでも簡単に好きなことを仕事として収入を得るのは難しいかもしれないけれど、そもそもそれは勉強の、それも学習速度でできるものではなくて、その考えで親自身が我が子に「頭が悪い」だのといっていたら、それこそ、勉強とは違う方面でも本人のやる気の全てを削いでしまって、芽をつぶしかねない。

だから、そもそも彼らの子は、彼ら親自身の視野で、頭が悪いと言っているにすぎず、本質的には、まだ何ができるか計り知れなく、それを伸ばすためにも出来ない事は減らし、できる事をもっと伸ばせばいいだけだと思う。

その先が月収十万なら、それでどう幸せに生きるか考えればいいし、そもそも稼ぐ金額で物を見ること自体が競争であり、競争は、自分が1位になるための努力なら”切磋琢磨”という良い一面もあるけれど、16位の自分の尊厳を保つために24位を見下すのなら意味はなくなる。

1位が一人しかいない競争では、千人いれば残りの999人が自分より上がいる事になって、それじゃ1位しか幸せになれないって事になってしまう。

 

 

だから、「怠け癖は良い結果に結びつき難い」というのならまだしも、親から勉強の点の良し悪しで判断されるその子もまた、1位にならなければ「あいつよりは上」と自分より下を見つける人になりえ、1位になれても、好きでもないもので必死にそれを維持しなければならなくなる。

多分それはどちらにしても本人は幸せではないと思う。

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おわり

我が子に「勉強しなさい」と怒鳴りちらすのなら、人の家より給料が良いとかそういうことより、まず親自身が”幸せな生活”を子供に見せるべきだと思う。

200612_やや編集。

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