ドラマやアニメなんかを見ていると、なんだか、無職やニートという言葉を、いわゆる”負け組”のように定義づけされてたりして、正直わたし自身今の収入は超少ないから、そういった言葉に良い気分はしないのは事実なんだけれど、、
そもそもその言葉の本質って、言われる側にはなく、言ってる側にあるように感じる。
負け組はダメなの?
以前ツイッターか何かでユニクロの社長さんが、年収200万以下のいわゆる”ワーキングプア”に対して「努力しないなら、年収200万以下も受け入れて当然」といったような事を言われていたのを見た記憶がある。
確かに、努力もしないのに収入だけ欲しいと思ってるなら、その言葉は通るような気はするのだけれど、、
そもそも、「収入が低い事はいけない事なのか?」
という事が説明されてないような気がする。
今現在私はブログによる価値の構築で収入を得ようとしているので、はっきり言うと、肉体労働の仕事をしていた時とはくらべものにならない位収入が減っているのですが、
そもそも私の目指しているところは、”年収の高さ”ではなく、”豊かな人生”なので、はっきり言ってしまうと、月5ケタにでもなれば十分だと感じています。
この話からややズレるのですが、ブログでの収入という方法も、まだまだ浸透してる物ではなく、そのせいで家族・親族には、家にこもって会社にも属さず、パソコンで何かやってるのが不健全に見えるようで、わたしはそれでもまだましな方なのでしょうが、完全に協力的に考えてもらう事はありません。
彼らがそのように考える理由はつまるところ、一定の収入と、肩書に依存するからじゃないかと感じます。
当然、収入は多いにこしたことはないのですが、それは人を判断する基準にはなりませんし、よく言われる言葉を使うと、「誰しも最初からうまくはいかない」のは当然で、その準備段階で収入が少なくなるのは、結果ではなく、通過点だからです。
わたしの目から見ると、同年代の、夫婦共働きで必死に働きそれなりの給料を稼ぐ親戚の日々は、確かに金銭的には豊かで、それなりの家、それなりの車、かわいいペット、年に1度家族で旅行。というそこだけ見ると羨ましくも見える生活をしています。
ですが実際は、それを維持するために日々あくせくと、決められた最低限を必死にこなすので精いっぱいで、見せない部屋は散らかり、洗濯はままならず、気が付いたらまた週初め。というように、何のために生きてるのか?支払いのためなのか?と見え、それは豊かには到底見えないものです。
けれど、それは収入の量の部分ではなく、収入の得方の問題だと感じます。
だから、収入が多いにこしたことはないのですが、それはそれぞれなので、誰もが多くないのは当然のはず。
けれどもそうであることが豊かと思い、そうであり続けなければ「負け組になってしまう」と自分自身で思い込み、というより、社会がそう仕向けているようにさえ感じます。
ブログでの収入というのは、労働収入とは明らかに異なり、労働した分がきちんと支払われるものでもないのですが、やりようによっては月収数百万クラスで稼いでいる方も間違いなくいます。(知らないけれど)
ただ、ブログ自体は職業と言えるものではなく(ただの記録(ログ)なんで)、収入が安定し企業化しなければ、いくら収入になっても無職といえるでしょう。
とはいえ、収入になるまでは(ないし、「そもそも収入になるのか?」が見えるまでは)何もやっていないのではなく、どうやるべきか?を”模索している段階”、要するに”勉強中”と言い換える事も出来ます。
それは、ブログ収入の話だけでなく、収入量に依存した仕事に違和感を持ち、、
そうはいっても”何をやればいいのかわからない時”にも起こりえる。
それは、ロバートキヨサキの本「金持ち父さんのキャッシュフロークワドラント」に語られてる、「働きたい人には、なぜ働けないのかを説明するのは難しい」という言葉が簡潔に説明していると感じます。
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それは、働きたくないのではなく、働いていると思っているが実は「働かされる状態」になりたくない。もしくは*そうなると(*家のローンや車のローン、その豊さを維持し続けるためのすべて)そこから抜け出せなくなるから、それ以外の方法で収入を得る準備、もしくは、訓練をするのにも時間が必要になるのです。
一般的平均収入とそこまで隔たりの無い人は多いと思うけど、成功した芸能人のような高収入だったり、働かずとも生きていける不動産のような資産持ちの不労所得者はそこまで多くはいないはず。
その現実の中で、多分「負け犬(負け組)」という言葉を見て喜ぶ人というのは、ステータスを維持できるのではなく、維持する方法で生きる人のように見える。
すなわち、「それを得られる自分は成功してるほうだ」と思う対象として、自分より所得が低かったりする相手に、この「負け犬」という言葉を使うのではないのか?と感じたりもする。
要するに、買えるから買う人と、持っている事が豊の象徴だから買う人がいる。という事。
それは、それぞれなんで、買ってはいけないという事ではなくて、「持っている事が豊」と認識してしまうと、無理をしなければならなくなる。という事。
哲学者のセネカは「生の短さについて」という本の中で、「日々職務を全うしている彼らは、実際は生きてない」というようなことを説明していました。
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彼らはきちんとした職に就き、日々職務を全うし、周囲から認められるのに、セネカは彼らを”生きていない”という。それは現代社会で考えると、会社の肩書や、収入の量の事と言い換えることが出来ると思う。
ですが、セネカは、「お金が最低限ないと人生を考えることもできない」といったような事も言っていて、それは矛盾してるようにも見えるのですが、それがさしてるのは「毎日遊んで暮らせない」というようなことではなく、”まさしく最低限”の事を言っており、お金がないと食べる事のみに集約され、日々食べるためにしか生活が出来なくなるからで、
特にこのセネカの時代は豊満な時代ではなく、多くの人が生きるのに必死な時代だったからこそお金の重要性を言っているのだと思います。
それに比べると、現代は、少なくとも日本において、健康体ならば、週3日程度のアルバイトにでも行けば7~8万は稼げるだろうし、水道はきれいでそのまま飲めるし、人生のすべてをかけてまで維持する見栄のようなもの(都会に暮らすなども含め)さえ持たなければ、生活は可能で、それ以上は欲や贅沢品といっても間違いはないと思う。
その欲を持つのを悪いと言っているのではなく、それを得た人をみて、自分もそうであるかように見せるために、実際は家庭内は火の車でも近所に”成功した家庭”に見せる青い芝を庭に植えるから、また隣も更に青い芝を植える合戦になってしまってるように思えてしまう。
だから、本来それは、出来るからやるものであり、やるために収入がいるとなってしまうと、あべこべになってしまい、収入量が幸福度とイコールのようになってしまうのだと感じます。
それは結局、「年収200万以下は負け組」と、自身で(もしくは社会が)定義してしまうので、本来”十人十色”で、収入に違いがあっても当たり前なのに、「最低でも200万以上にはならないといけない」と、必死に取り繕う事になってしまい、幸せになりたいのに、幸せに感じない原因になってしまう。
ですが多くはそう行動し、多くがそう行動するから、それが普通とされ、その普通を行わないと(すなわち、お金をいっぱい稼ぎたいと思わない事が)、変わり者だとか言われてしまう。
実際多数決で少数派は変わり者と言われるのは”言葉のマジック”とでもいいますか、事実なのですが、その変わり者とされる者は、場合によっては他人に左右されず、自分らしく生きていける人もいて、ただ多数側が普通とされているにすぎません。
普通というのは劣っているわけでも、個性がないわけでもなく、ただ、普通の人にとっては普通であることが安心なのでしょうし、
逆に変わり者は、アフィリエイトには向いていると言われたりもするけれど、個性があり、稼げるというわけでもない。あえて変わっているのでなく、そうあることが安心と感じるのと同じ。
結局それは向き不向きであり、普通であるがゆえに稼ぐことができる職もあれば、変わり者の方が成功する仕事のようなものもあるだけの事。
でも、わたしの身近にいる親類を見ていると、「良い車に乗ってるから幸せ」のような生活を維持するために働いているから、日々へとへとで、夫婦お互いが「子供の面倒見てない」などと愚痴を言い合っているのをみると、それでも収入を増やそうとするから、そうなってしまう事に気が付いてないのだと感じる。
それも上記の「金持ち父さんのキャッシュフロークワドラント」の中から引用させてもらうと、実の父の貧乏父さん(といっても社会的地位もあり一般的には成功者に見える人なのですが、その辺も本を読んだ人ならなぜその人を貧乏父さんと呼ぶのかわかると思いますが、ここでは割愛)とは違い、金持ち父さんは労働でなく投資によって成功したので、お金持ちになればなるほど、子供たちとの時間が取れるようになった。と言うような事を言われてました。
当然投資家になんてそうそうなれるものでもないし、労働者も重要な仕事だから、投資家の方が偉いと言いたいわけでもなければ、全員がそうならないといけないという事でもない。
ですが、労働によって収入を増やすと、収入量に比例して、労働量や責任が増えるのは当然で、その生活で得られる収入のいっぱいいっぱいを使って、そこそこ立派な家をローンで建て、車も定期的に買い替えるなら、どこかにしわ寄せがいくのは必然なことです。
幸せの定義とでもいうものに確実はなく、相当なお金持ちの家の人も相当な気苦労があることも、逆に資産食いつぶしてのんびりしてる人だって当然いるだろうし、田舎でほぼ自給自足で最新ゲーム機なんてないけど幸せを感じてる人だって間違いなくいる。
だから、「負け組」の対義である「勝ち組」の定義もまた、収入量や所属している会社や肩書ではないのは間違いがありません。
なので、そもそも、周囲と比べるのではなく日々何が出来るかを考え行う事が最も重要で、そんな中でも、もし「負け組」とはなにか?をあえて言うなら、自暴自棄になってヤケを起こす事なんじゃないかと思います。
苦悩することもあるし、何事においても絶対うまくいく保証なんてないけれど、ヤケを起こしてしまう先が、決してうまくいかないのは、難しい歴史書まで持ち出さなくても、真実なのは間違いがない。
はっきり言うなら、多少所得が低かろうと自分の為に生きれるなら、その方がはるかに豊かで、はるかに意味のあるものに感じる。
それに必要なのは高い収入ではなく、どう収入を得るか?なんだと思う。
夫婦共働きで月収40~50万程度稼ぎ、近所からは成功者と言われ、素敵な家を買い、車検の度に新車に買い替えられるけれど、税金やらローンやらで手持ちにそれほどお金は残らない。
仮に、貯金額が多かったとしても、不安は減るかも知れないけれど、幸せとはまた別の話。
だから、「負け組」という言葉に煽られてはいけない。
終わり

ホーチミン人民委員会庁舎前にて
わたしの収入は乏しいし、将来的にも有名ブロガー・アフィリエイターのようにはならないかもしれない。
けれど、最低限でも生活さえできれば、場所や時間といった多くのしがらみに束縛されないから、どこからでも(海外からでも)行う事ができる。
当然、パリやローマのような素敵な場所(行ったことないけど)にも行ってみたいけど、人に自慢するためじゃないから、物価の安い所でもよくて、ベトナムなんかだと200~300円でも十分食事がとれるし、今は都心部なら想像ほど汚くなくて、見栄はって着飾ってなくても、日本人というだけで好意的に見られたりもする。
相手を見下すためにあるような「負け組」という言葉は実際の所「負け組」と呼ばれてしまう対象者にあるのではなくて、その言葉を使う側こそ社会に煽られてるのではないか?と感じる。という事です。
20200908_微編集