【個性で稼ぐ時代】教養から『自分らしく』を考える。

”真の”働き方改革
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以前、ちょっと勉強が苦手なわが子をすぐに”障碍”といってしまう親戚にたいして「リベラルアーツが足りない(前回)」という表現を使ったのですが、まだ表現しきれてない部分もたくさんあったので、

前回の続きから、”リベラルアーツ(教養)から『個性で稼ぐ』という意味の本質”を考えていきたい。

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以前の続き

「勉強していい学校出たら幸せになれる」といったものの見方や偏った発想が、地方とはいえそれなりの大学を良い成績で卒業していても言ってしまうのは、ようするにリベラルアーツ(教養)の問題のように思う。

成績がいいというプライドがあるのはいいけれど、高学歴で頭がいいのに、”幸せ”より”高収入””地位”を美徳としてしまう。

リベラルアーツを学べば好きな事が仕事にできるわけじゃなくて、そもそも収入がいいかどうかで就職先を決めるような進路の決め方をせまる事自体が教養あるものではなく、当然そんな選択に幸せがあるわけが無い。

社会構造が複雑化し、畑を耕すだけでは生活するのは難しく、労働でより高い収入を得るには、学生の間に少しでも多くの専門的知識を身に着ける必要がでてきて、そのせいで、「収入を得られる理由」や、「そもそもどう生きるべきか」なんてものがないがしろになってしまっているように感じる。

「現代の学校教育のありようをどうこう」といった難しい事はわからないけれど、”某動画チューブ”のキャッチコピーじゃないけれど「好きなことを仕事にする」といったことの本質を、まずは親や教育者にこそ考えてほしい。

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教養なき個性

”教養”を考えたとき、『他人に迷惑をかけない』というような当然のことが思い浮かぶけれども、そのために”自分らしさ”をなくす必要はなく、むしろ、個性の中にこそ見出すものだと感じる。

誰かの作った物語で良い人を演じていて、自分が幸せになれるわけが無い。

けれども個性は、競争するものでは無く、ただ、オリジナルであるということで、それは、小難しく考える必要もなく、他より秀でている必要も無い。

単に「オリジナル」であること。

それは至極簡単な事で、ありのままの自分だという事。

だから、それは、無理やり人と違う事をやると言うような自己主張とは違う。

人は、その日、その時、全く同じ空気を吸っても、全く同じ感想を持つことはありえず、それがまさにオリジナルになる。

あえて言うならば、もう何番煎じかもわからないほど、”やりつくされたもの”であったとしても、自分が人に言われるわけでなく始めるのなら、その瞬間オリジナルになる。

その「オリジナル」もまた、他との競争における”らしさ”のために行っているのなら、それはまだ人の物語で踊らされている事になる。

要するに、「自分はこうだ!」というキャラを、人の物語で演じているだけの道化師という存在になってしまう。

だから自分が何番煎じだとか、誰かとかぶるとか、かぶらないとか、そういったもろもろの感情は初めからずれてしまっているように思う。

 

仮にギターを弾きたいと思うなら弾けばいいだけの話で、どうせ、多分おそらく十中八九、1位にはなれない。

でも、そんな事どうでもいい。

本当に好きで弾き続けた人の中から、歴代ギタリストランク8位も12位も2位も96位も生まれ、その中で最もすごかった人が100年レベルで1位と言われるだけの事。

 

その中で自分が1位になれないからと言って言う「オリジナル」は本質的な「オリジナル」ではなく、あえて厳しい表現をすれば、「負け惜しみ」になってしまう。

だから、だからこそ、本当に好きかどうかが重要で、本当に好きなものならば、順位や、自分よりうまいとか、ヘタいとかそんなものは一切関係なく続けるだろうし、小難しい”リディアンクロマチック”を習得する事が重要ではなく、もう何千万番煎じ”かもさだかではない、ただの”マイナーペンタトニック”もまた「オリジナル」になりえるのだと思う。

 

ただそれは、努力は必要ないというわけではなく、本当に好きな事なら、人からは苦行に見えても、本人には苦行とならず続けるだろうし、好きだからこそ、苦手な不得手な部分も、楽しみから来る幸福のために、結局は努力を惜しまずやることになる。

それは楽器だけの話ではなく、真理の話だと思う。

 

商品として生み出されていく曲などは、順位のなかで競争を繰り返し、その中でたまたま注目されたものが、ひと時の間”名曲”などと評価され、そして、5年後には誰も口ずさむこともなくなっていく。

 

時間の限られた人生の中で、全てを知ることはできないけれど、記録を残せるようになってからだけでも、ジョニ・ミッチェルや、ジョン・レノン、ボブ・ディラン等々達は、歌を通して本当に意味のある何かを伝えようとし、だからこそ、世界中から評価されている。

そんな真の意味でのアーティストは、現代の競争社会でお金を稼ぐ事が豊かとされる考えでは育まれないように思う。

 

哲学やリベラルアーツ(教養)を実社会に役に立たないといい、進学のための知識として捉え勉強し、流行に踊らされる人生では”本質的幸せは掴み得ない”

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個性で稼ぐ人

仕事に誇りもやりがいも感じることなく、収入の為に仕事をすると、欲しいものを買えることが、ご褒美ではなく、目くらましともなりえ、将来いつか疑問に思う日がきたなら、そこに費やした時間に絶望する事も考えられる。

引用元サイト:ted.com

 

「何年も後になって『何をしていたのか?』と訊かれたらどう答えるだろうか?」という問い

8分42秒後からの引用

 

ただ、それは全ての人に当てはまるものでもなく、最後の瞬間まで気づかない人や、最期まで健康に生き老衰という”最高に運の良い平凡”を生きる人も少なくとも存在する。

その中で、”自分が後悔しない生き方”ということを考えた瞬間に、人生を運否天賦や、人の評価に左右されない生き方を目指すようになる。

その結果、身の回りにある贅沢品から、本当に好きなものだけが見えてきて、いらない物に囲まれた生活にむなしさを感じてくるようになり、それが他者から見ると、鬱だとかノイローゼだと言われたりする。

しかし、それは本質的な幸福を目指すからこそ来る物であり、少なくともそれまでは、やりたくも無い仕事でも役職を与えられ、それなりの車を5年ごとに買い換えられる方が豊かに見え、その贅沢品を持ち得ないほうが不幸せに見えるかもしれないが、その一瞬の物質的幸福は、子供のとき何度となく経験した「誕生日やクリスマスの次の日」と同じ気分だ。

 

誰しも可能では無いとされる、「好きなことで、自分らしく生きれる人生」と言うのは、競争で得られるものではなく、人の役に立つという本質のもと、価値を作り出した人たちだからこそ可能になる。

 

漫画家で例えるなら、誰が頼んだわけでもないのに、自分の描きたい物語を自分の幸福(描きたいと言う欲求)のため描いたからこそ「ドラゴンボール」「ワンピース」「ガンダム」「のだめ」も産まれ、その中からそれらが最も有名になっただけで、順位の上では1位や2位と言われるかもしれないが、これらに順位は意味を成さない。

 


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それらは全て順位によるものでなく、唯一無二の価値であり、誰が頼んだわけでもなく、無償で作り出したその価値に、多くの人が「勇気や感動、意欲」などを与えられた結果、大きな収入になっている

ビジネスでは、それに便乗し似せたものを作れば「最低何千部は売れる」と言った計算の下で作られるものでも稼ぐことは可能で、その”稼ぐための仕事”のために働くから、”嫌な仕事でもやらないといけない”と言う事態になるのだと思う。

でもそれ自体を「いけない」と言ってるようにも見えるから、そうではなく、そもそも教養が重要であり、それ(哲学など)「利口ぶるためのツール」「進学ための知識」のように間違えて捕らえてはいけない、と言う事を理解するためにも、リベラルアーツが必要なのだと思う。

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労働の自由意志とは

普通程度のサラリーマンの家に生まれて、「とにかく進学することが大事」といった考えをもつ大半の親や教育者が教えるそれは、「自由意志の下の労働と言う体裁の下」の「強制的に選ばされる労働」にもなりえ、

「幸せになりたいのか?」それとも、「他者と争ってでももっとお金を稼ぎたいのか?」のどちらを教えてるのか理解するべきだと思う。

 

先ほどの動画の最後に言われているような、「世界を正しい方向に」等という大それたことを言うつもりもなく、けれども、つまるところ、自分の人生をよりよくすることは本質的に社会が良くなる事でもあり、競争して順位をつける教育や、稼ぐための労働で収入を得る社会は、本来あるべきではない経済の悪い側面の助長なんじゃないかと思えてしまう。

動画の内容は、わたしには理解の難しい所もあるけれど、学校教育で知識を得た結果、考慮の末「危ないかもしれないことはやらない」というような、いうなれば「石橋を叩いても渡らない」などという表現は、慎重派なんてものではなく、

知識を持った先に出す答えとして”ありえてはいけない事”だと認識する必要があることだけは間違いないように感じる。

 

事実、要するに、ホリエモンのような「成功者」と言われる人の中には、ある種「失敗」や「過ち」を犯してしまっている人もいて、それ自体を良い事だと直接いうわけではないが、そもそも知識で得られる答えのみでは、実社会では通用しない・該当しない答えが多く、「人生はそもそも失敗するものだ」と認識しなければ、恐怖や理屈で動けなくなってしまう。

だから、しっかり勉強して知識を持った先に、”挑戦しない”という答えが出ること自体、あってはならない事だという事。

ただ、間違えてはいけないのは、”挑戦する”とは、「人に迷惑をかけてでも私欲のために好きなことをやっていい」ということではなく、「自分の出来ることで他者(社会)にどんな価値が与えられるのか」のなかで自由に決断できるものだと思う。

 

そのとき始めて、得手不得手個性も意味のなす言葉になり、収入の上下もあって当然の事と認識できるのじゃないかと思う。

ただ、課せられた労働を果たすことも、決して悪い事ではなく、それどころか素晴らしい事で、その事実があるからこそ、それに対し盲目にもなりえてしまい、それを正しさとイコールだと思ってしまう。

それで本人が幸せであるならそれが何よりだけれど、他者を幸せにできない私欲的な幸せのための労働では、本質的に自分も幸せになりえるはずが無い事を理解するにも教養は重要なんだと思う。

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行動原理は愛

Netflixオリジナルシリーズ『スター・トレック:ディスカバリー』予告編

 

『きっと立派な船長になる。なぜなら、君の行動原理は愛だからだ』スター・トレック:ディスカバリー シーズン2第一話より引用

 

上記は、「船(ディスカバリー号)を降りる」というスタメッツ少佐が、いい子なんだけどチョットおしゃべりな士官候補生のティリーに送った言葉。


参照:AMAZON

 

儲かろうと必死にやる行いが、私利私欲であればあるほどあさましくなり、競争がより激化していく。

その時、その行いの核がどこにあるのかは重要な事だと思う。

そう言った意味で、「行動原理が愛であるか否か」という事は最も端的に表した、素晴らしい表現だとおもう。

 

競走で勝ち得る全ての人達を否定するわけでは無いけれど、睡眠時間3時間でいい人もいれば12時間の人もいて、歴史的に見ても、両者に素晴らしい功績を収めた人がいる。

けれども現代の一般社会で成功するためには、睡眠時間一つとっても、短い事のほうが優位になっている。

その中で「不眠不休でも稼ぐ事が幸せ」だと思えないのなら、短時間睡眠の人に合わせる必要はなく、収入が多少低くなろうともそんなことも関係なく、自分のできうる限りで人の役に少しでも立てればいいのじゃないかと思う。

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知識による教養

上記の動画からもわかるように、「リベラルアーツをどう教えるか?」について優秀な人たちも考えているようだけれど、結局、教育で収入を得ている”教育者”では本質的にやっている事といっていることにズレがあるように感じる。

「知識のみでは叶わないんですよ」と知識で教えているのでは、床の上で泳ぎ方を教えている事となんら変わりはなく、”指導者を育てるカリキュラムで資格を得た指導者”では、リベラルアーツだろうと哲学だろうと言っていることは頭でっかちな理屈にしかならないのじゃないかと思う。

「学校に行くより本を読む方が・・・」と言えば否定され、「発展途上国を数年旅する方が・・・」と言えば否定され。

そのどれも結局は同じことで、本人がまず”得たい”という欲求が無ければ、何を教えても、最高の教育者が教えても、学べるようなものじゃなく、ただの知識になってしまう。

だから人によっては、マンガからでも映画からでも学び取る人もいるし、すなわち、”途上国を旅する方が教養が学べる”という人は、そこから何かを感じ取っており、

「リベラルアーツの教科書も開かず、旅で身に着くようなものでは無い」と言う人の方がよほど教養を身に着けていないのではないのか。

教養ある人とは、人を学歴や生まれで判断するような人ではなく、自分自身もまた「これは本当に正しいのか?」と常に自問し、多数決でない本質的な価値を見つけ行動する人であり、教養というものに対し、すなわち「リベラルアーツの学問を受けたかどうか」という考えそのものがずれてるという事。

だから当然、”高学歴でなくては見出せない”ということでは無い。

 

そもそも他者を成績による順位で判断する時点で教養あるものとはいい難く、「学校に行きなさい、もっと勉強しなさい」というのならその理由を完全に答える事が必要であり、

親も指導者も「なぜなのか」の追求なく、少しでも高学歴とされる学校に進学させるべく、学問の本質よりもテスト対策を施し、結果、給料だけは多少良く見えるブラック企業に入社させられ、怒鳴られる事に慣れなければ、鬱などといわれ、せいぜい月収50万でも稼げれば勝ち組といわれる。

その「勝ち組」として車でもなんでも維持するためには、やりたくも無い仕事でも辞める事は許されず、続けなければならなくなる。

 

 

だから、その仕事がどういった理由であれ、嫌いでなければいいけれど、幸せとも感じないもののための知識ならば、何の意味があるのかと思ってしまう。

 

「社会的に普通かどうか」などというものは、その社会で得する人と不利な人ができてしまい、男性なら背の高く逞しい顔をしたほうが有利であり、女性ならスタイルがよく、綺麗な顔をしているほうが有利なのは、デッチアゲではない事実でしょう。

 

その社会で幸せになりえにくい側でも同様に、同じ労働を「好き嫌い関係なくやらなければならない」というのならば、それこそデッチアゲ的なプロパガンダにもなってしまう。

 

それは「成功」というものを収入や地位などで計ってしまう社会の一方的な意識からくるものであり、自分が幸せである事と他者の幸せが本来同一であることを知ることが重要なんじゃないかと思う。

だから、そもそも点数による順位は自身の向上の為であり、人と比べる為のものではないと知る事ができる。

そうでなければ、地方大より都心の大学、都心の大学より世界の大学の方が優秀となってしまい、そう認識してしまうと、リベラルアーツを学べる優秀な学校を出た自分の優位性を保つために、自分より下位の学校を見下すという、教養のないものになってしまうという矛盾が生じてしまう。

そうであるから、”リベラルアーツを学んだか?や、哲学を学んだかどうか?”ではなく、「その発言や思考は教養のあるものかどうか?」という事を親であれ指導者であれ、人に何かを教える立場であるのなら最も重要なこととして捕らえるべきだと思う。

 

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”教育”という”ビジネス”

「とにかく進学しなさい」というから、結局その社会では、塾から入学から通学から大雑把にあわせても”1千万円”などという途方も無い金額を大学卒業までに当然のごとく使う事になり、学校を卒業したり、資格を取得しただけでは”実はまだ何の価値も生み出せて無い”という事も知る事も出来ずに、返済のために毎月20万程度は稼げる会社に就職することになってしまう。

 

「好きなことをやる」というのは「身勝手に」ということではなく、本質的な当然の話をしているのであって、理想の話ではない。

「好きなことを仕事にしろ!」というのは、スティーブジョブスのような大きな成功を収めた”価値の提供者”たちが言っていることでもあります。

 

そして彼らの成功は確かに金銭的にも大きいけれど、そこだけを見ること自体が教養からもずれていて、逆に「稼ぐ人は汚い」と言う一方的な誤った発想もそういったところから生まれるんだと思う。

彼らは確かに大きく稼いだけれども、重要なことは、大勢に喜ばれる価値を提供した事にあり、学生時代に「通信ナントカ科の方が将来稼げそう」と言う発想も、教養ある発言では無く、その発想のままでは、将来思ったように稼げなかったり、稼ぐ事に振り回されてしまう。

 

確かに分野的に稼げる分野とそうで無い分野は事実あると思う。

けれども、「自分が儲かろうとして、誰が喜ぶのか?」を俯瞰的に見れば、答えは明らかで、「自分が一番になりたい」等は人の知ったことではなく、「わたしが儲かりたいからこれ買って!」では売れないことも、経済学を学ばなくても当然わかる事です。

だからこそ先に最低限見なければならないのが「他者への貢献(価値の提供)」であり、その先に高収入を得る人もいるだけの話であって、そもそも他者に幸せ(価値)を与えずして、目先の利益に捕らわれてしまうから、嫌な仕事をする事が当然となってしまう。

 

教育もビジネスとしての一面もあり、そもそも進学によって幸せになるとは一言も言っておらず、入学させたい親などが「そこに行けば、難関学校に入れ、その後はエリートとして豊かな人生になる」と思う事で成り立っており、実際、スティーブジョブスやホリエモンなど多くの成功者に中退者が多くいる事からもそれが現れていると思う。

ただ彼らは本質的に頭が良い人であることは紛れも無い事実であり、中退したほうが賢いと言ってるわけではない。

ここで言いたいのは、幸せや成功が約束されているわけではない学問だけで判断し、大学という高度な教育まで受けてもなお、本当に何が好きか、何がやりたいかも答えが出ないまま、会社の面接のためにSPI対策を施し、当然のごとく「入社したい理由」を述べるのが普通となってしまっていることも、教養より知識を優先した教育が生み出した結果に感じる。

 

 

教養なく詰め込まれた学問によって入社した会社では、その仕事が好きかどうかは全く問題ではなく、どれだけ労働したかにかかっていて、ようするに”苦手な科目でもしっかりこなし、「もしかして違うんじゃないか?」等と無駄に患うことなく、100点を取ってきた人”がその世界で昇進していく。

 

”仕事を辞めれば幸せになれるのか”といった問題も、”誰しもできるかどうか”以前に、「動く(”働く”ではなく”うごく”)価値」「それは何のために動くのか?」を学生時代に養わなければ、誰に何の価値を提供できてるのかもわからないまま、労働で給料を貰う事になってしまい

時代の流れや運(生まれ持つ容姿等)によって成功する芸能人のような、今では”某チューバー””某スタグラマー”などに憧れてしまったりする要因になってるのではないかと感じる。

 

 

”誰でも思うように生きれない”という言葉は事実であるけれど、それは紛争地域や貧困地域の人々に当てはまる言葉であり、どうあれ、大学まで進学できる環境に生まれた人が「自分らしく生きれない」と思うのなら、”自分らしく””私利私欲”と混合し、人に価値を与えるでもなく「収入だけは多く得たい」と思ってしまうから、より一層自分らしく生きることが困難になってしまうのではないかと思う。

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まとめ

今では某チューバーなどは『自由に生きる』の”代名詞”のようになっていて、憧れる子供も多いけれど、子供の時から本質を見定める目を養わなければ、その中に紛れ込んでいる”見せかけの作られた成功者”に踊らされてしまう。

”リベラルアーツ(教養)を養えば自由に生きれる”というわけではないけれど、他者と比較した収入量や、持ってるかどうかなどという考えがそもそも教養もなく自分自身を束縛する原因になっているように感じる。

その、リベラルアーツを学ぶ為には、エリート大学に(高いお金を払ってでも)行かなければならないという事はなく、教養というものは、高い教育の末にあるものでも、利口ぶるためのツールでもなく、誰しもどんな環境でも、まず知ろうとする事で学ぶ事ができるものだと思う。

その時やっと”個性”の持つ本来の意味を理解することができ、やりたい事が収入に繋がっていくのだと思う。

210213_編集 210416_加筆編集

”真の”働き方改革
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