「おま国」のまかり通る”先進国”日本は、ビジネスでは”後進国”。

雑記

基本的にはゲームはもうほぼ引退気味で、少なくとも新作ゲームなんて買ってないのだけれど、海外のゲーム屋さんのゲームセールを日課のように見てたら、また日本からは買えないゲーム(おま国)を見かけてしまい、その事について書きたくなってしまった。

最近ベトナムに行くようになって、改めて日本が先進国だと認識できることがあるのですが、ゲームにおける「おま国」問題がまかり通っている日本は経済的にガラパゴスであり、世界規模では遅れてる部分があるように感じた。

 

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「おま国」と給料の関係

先進国である日本は、物は十分に揃っており、お給料も普通に働くだけでも他のアジア圏より高給だったりするけれど、付随してそのために必死に働くのが当然になってしまってる所もある。

そして、その先進国であることを維持し続ける為に労働時間も長くなり、物価も高くなる結果、ゲーム一つとっても他の国より高く買わされるという訳の分からない事が当然として成り立ってしまっているのじゃないかと思う。

すでに先進国として平均的給料が30万前後と定まってしまっている日本では、どう働いても、”ただ働きに行く”という感覚のままではそれ以上にはならず、価値の創造から収入を得るのではなく、すでにできた価値を無理やり維持してでも収入を増やすビジネスの象徴として、例の「おま国」に表れているのではないかと思う。

 

おま国とは?

この「おま国」という言葉はPCゲーマーにはおなじみの言葉だが、一応ちょっと解説しておくと、同じゲームでも海外と日本で値段が違ったりするものに対して、販売規制をかけ、日本人(日本在住の場合)は購入できない仕様になっていたりするもの、すなわち「お前の国には売ってやらない」という事から、その事を、揶揄嘲笑を込めて「おま国」といつごろからか呼ぶようになった。

他にも「おま値」(お前の国はこの値段)「おま画」(お前の国には画像だけはみせてやる)などなどあるが、今回の話からずれるので、これ以上は触れないでおく。

この「おま国」ゲームは、PCゲームでは当然のように行われており、初めて見かけた時には言いようのない憤りのようなものを感じたが、今では「はいはい、これもね・・・」と軽く感じてしまっている。

メーカーの言い分としては、自社企業の売り上げ確保というのだろうが、実はこれは独占禁止法に引っかかる行いかもしれないという事で、海外では調査されてるようだ。

 

 

 

この問題は、良い一面を捉えると、「物価の低い地域の人でも遊べるように」と捉える事も出来るが、逆にいうならば、物価の高い地域、(要するに日本)から、安い地域の価格で買われると、メーカーの利益が落ちてしまう。

要するにそこが問題になってるのだと思う。

よくよく考えてみると、消費者であるこちらからすると、「アンタの会社の売り上げが落ちようと知った事じゃない」というのが当然の事であり、売り上げを上げるために、安く売る地域に規制を行うのではなく、より価値を高める(もしくは作り出す)のが資本社会の本質であり、横流しで得る収入は本質ではない。

ちょっとずれるかもしれないが、以前、サブプライム問題が発生した際、『このような重大な問題にも気付かず、ただあるだけの企業なら意味がない』とばかりに、超大手であった企業にさえも公的資金は投入しなかった事からも、同様のものを感じる。

 

 

すなわち、新たに価値を作り出したり、価値を更に高めるのではなく、過去に作られた価値を無理やりにでも維持したり、他(海外)で作られた価値(この場合ゲーム)をただ販売元として間に立ち、日本で販売する際にわざわざ高い金額を付けなおさなければ、月収30万の給料が得られなくなっているのではないかという事。

それは、過去の名作(ドラクエやFF等)をスマホ版に作り直した商品などにも表れる。

スマホで遊べるようにプログラムを作ったりする作業は価値のクリエイトと言えなくもないが、そもそもその作品があっての話であり、小説で例えるならば、「大いなる遺産」を書いたディケンズ、「罪と罰」を書いたドストエフスキーなどなど、は価値を創造しているが、それを印刷する作業は価値の創造ではないといえると思う。

ただこの”作業”いらないといってるわけではないことに注意していただきたい。

以前私も肉体労働の仕事をしていたが、作業も立派な社会貢献であり、そういった人たちのおかげで社会が回るのも事実。

 

 

ただ、今回の件で話を進めると、今のゲームの焼き直しなどは価値創造ではなく、上記の例でいうならば作業だという事。

そして、作業はそもそも資本社会でお金の価値を高めているものではなく、お金の価値を高めた人(企業)にとって必要な作業の対価であるから、事実、作業では給料も上がりにくいし、だから、そもそも、作業で月収30万というのが貰いすぎなのかもしれない事を一度考える必要があるように思う。

ただ、この問題は自身だけの問題ではなく、環境にもあり、近所をみると、普通の家庭でも何百万もする車を当然のようにローンで購入し所有しており、となると、自分家の駐車場だけ30万の中古の軽では恥ずかしくなるという事がおき、それが当然のこととなり、それを維持するためには最低でも月収30万は必要となってしまっているのではないか、という事。

そしてその30万を得るためには、世界経済に巻き込まれないよう、海外で定価5000円(米50ドル)のゲームに日本だけ8000円という値段をつけ、さらには、その海外の基準である5000円のゲームに日本からは規制をかけ購入できないようにするという方法で、自社の売り上げを確保する。

それが、資本社会的に見てまっとうなビジネスと言い難い事は、さきの「禁止法違反の疑い」のニュースからも感じとれると思う。

テレビCMでは、同一ゲームが海外で5000円で売っている事や、PCでは規制の無い商品ならば購入できることも当然伝える事もなく、さもすると、大手日本メーカーの本体だけの販売のように思わせぶり、その金額も8000円だというから、ゲームに注視していない人たちは、その8000円を当然の事と感じ、その基準額で購入するかどうかを決めることになる。

すなわち、そうであるから、その差額3000円を自分も仕事で稼ぐ必要が出てきてしまい、嫌な仕事も当然の事となり、ちょっとしたブラックならマシとなり、サービス残業も当然となっているのではないのかという事。

こういったすべての事情から抜け出すには、安い服を着ていても、自分で切る髪がダサくても、ぼろぼろの原付に乗っていても一切周りを気にしないか、そもそもそれが標準となってしまった社会構図から離れる事が必要なのではないかと思う。

その渦中にいれば、自分も含めそれが周囲の普通という事になるし、例えるなら、以前何かで「”1億以上貯金してる国民の人数”は日本が1位」と見かけた事があるが、小規模とはいえ会社を運営してる知人(親戚)のいる私の周囲でさえ一人もいないし、知り得る限り近所にもいないように見える。

けれども、これは憶測も入るけれど、白金のような都心の高級住宅街に行けば、近所の10軒中9軒はそのような家庭なのかもしれない。

要するに、そこにいればそれが標準になるという事。

だから、自分の周りでの普通とは、自分の周りだけの事であり、楽天の社長や、ソフトバンクの社長や、当然そういった経済的成功者でなくとも、収入にとらわれず自分らしく生きてる人の集まりに行けば、それが過半数となるのは間違いのない事実だ。

碁打ちの集まりではゲーマーは少数だろうし、テニスコートに行けば譜面が読める人は少なくなる、全ては当然の事。

その社会で、学校を卒業し、会社に入れば初任給が20万という事だけは普通となる。

なぜなら、周囲がみなそうなのだから、そこで出世し成功することが、自身の幸せとなっていく。

そうして、その意欲のために高価なものを買って活力とする。

少なくとも、その社会で頑張ればいつか幸せになれると思い、必死に給料を維持している家族(親戚)は幸せには見えないし、その先に幸せがあるという感覚が理解できない。

 

幸せは、その道中にある

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幸せとは”達成”にあるのではなく、”その道中”にあるものだと思う。

そうであれば、お金が無くても幸せな人もいれば、お金があっても幸せになれるわけではないという本質も説明がつく。

私は会社を辞めて海外に行くようにしたが、そうするべきと言いたいわけではない。

そもそも海外に行けば幸せになれるというものでもないし、幸せの形は個々に依存するから、人と同じことをして幸せになれるというものでもないからだ。

例えるなら、アフリカでゴリラの生態を調べたい人にとっては、会社命令でもコンゴに飛ばされることは幸せにもなりえる。

ただ、収入の多さで幸せを見るのならば、それは少なくともそこに居るからであり、そこから出ればそれは正論ではなくなる。

現状ベトナムより明らかに日本の方が給料がいいにもかかわらず、現地で目をキラキラさせて働く人がいるのは、今まさにグングン伸びるのが楽しく感じるのだと思う。

のちに先進国となった先は結局、衰退しないよう”価値の引き延ばし”にかかるのかもしれないけれど、そうでないのかもしれない。

それは今の私にわかる事でもないし、どちらにしてもそんな大局を私には動かせやしない。

たださきの「おま国」に表れるように、今の日本では、もう出来上がった道路を掘り返して作り直すのが困難であることと同様、この”価値の引き延ばし”で高い月収を維持する”普通”を変えるのは困難になっている。

それはつまり、「10年後には幸せになれるのか?」といったような疑問や希望のようなものは、個の感性そのものであり、社会の行く末とは関係ない。

”10年後”とはつまり10年前に見る”今”であり、社会をよりよくしようとした、明治維新から見れば100年以上もたっている。

それでもなお、「将来社会が良くなれば・・・」、というのなら、それは100年後も同様であり、何年たっても完成するようなものではなく、よりよくなったら幸せになるというものではないという事がわかりもする。

であるから、幸せとはその道中であり、現時点で幸せでなければ、月収が50万になれば幸せになるという感性そのものがずれており、本質的に無関係だという事がわかりもするのではないのかと思う。

結局、この「おま国」の問題も、ゲームメーカーの問題というより、そこで働く従業員すべての問題であり、それは当然ゲームメーカーに限らず、収入のために働く結果引き起こされる問題なんではないかと思う。

収入を上げるために努力することは当然素晴らしいが、収入を確保・維持するために、5000円の物をいかにして8000円として売るのかという考えはある種の詐欺にも似た発想であり、であるから、調査が入るのであって、それでもその金額がまかり通る間は、その金額を払わなければ購入できないし、そうなると、自身の収入もそこにあわせなければならず、その収入確保のため、自身もまたどうにかやってでも高く売る手法を考えることになってしまう。

それで幸せになれるとは到底思えないし、そこで稼げても必死であり、その渦中も幸せに感じれるとは思えない。

以前、ベトナムで知り合った男の子が、アジアで最も早くに先進国となった日本に憧れ、日本語の勉強もしていて、「給料の高い日本に行きたい」と言っていたけれど、実の所はその希望を持つその瞬間にこそに幸せがあるのだと思う。

そうでなければ、その彼も将来日本に行けなければ不幸せと感じるだろうし、そうなると、いつか気持ちが荒むことも考えられるし、日本に来ても、結局給料以外の面では報われることはないのではないかと思う。

これは彼だけの話ではなく、日本人でも感じる人もいるであろう、”あわただしく過行く日々の虚しさ”に繋がっているのだと思う。

 

物の値段は%で決まっている?

結局「おま国」「おま値」といった、なぜ日本だけ高い金額になってしまうのか?という事態も、それはゲームだけでなく、そもそも商品価格とは”いくらか?”ではなく、”何%か?”で決まっていると解釈する方が正しいように思う。

たとえば、平均月収約30万(実際は35万前後らしいが計算上わかりやすく)である日本人と平均月収約3万のベトナム人(職種にもよるけど、平均的労働者の場合)の場合その差は10倍ある事になるが、結局日本では3千円するTシャツが、ベトナムでは300円で買るのだから、違いはなくなる。

要するにそれがゲームの場合だと、〈おま値〉〈おま国〉として現れ、セールともなれば500円以下で買えてしまうゲームに規制をかけ、日本だけは3千円以上になっていたりする。

それは結局のところ、平均収入からの%で商品価格が決められているからと考える方がわかりやすく、そうであるのなら、いくら頑張ってもその頑張りが収入の為であるのなら、いつまでたっても追いつくとが無い事がわかりもする。

それをゲーム一つとってみても感じるし、ベトナムのような物価の安い国に行くようになってより感じるのは、その国の人が結局低い収入の中で、楽してるわけでもなく、普通に生活をしていて、楽しそうだったり、そうじゃなかったり、多少ビジネスに成功した人もいたり、

それで変わるのは、中古バイクから新車バイクに、ちょっとばかり破れたTシャツは綺麗なTシャツに、100円の食事は1000円の食事になるのだけれど、結局、物価も一緒に上がってしまって、その人生そのものは決して楽にはならない。

なぜならその方法では、生活にかかわる費用全てが一緒に上がるのだから、学校に行く費用にしても食費にしても結局すべてが高くなり、高くなった分を働いて支払うという事に変わりはないからだ。(少なくとも現時点で生活できてるのならば)

ただそれは現状のべトナムの人から見ると、綺麗な服は羨ましかったり、憧れたりするのだろうから、わかりにくいのかもしれない。

けれどもそれは、今の日本人にも言え、綺麗な服は持ってるのだけれど、それはみんなが持ってるものだから、人よりも一枚でも多く持ってることがステータスになってしまうし、その値段が高い事でもステータスになってしまう。

綺麗な服がいらないと言っているわけではないけれど、要するに、結局その給料をどこで使うかであり、ゲームを買う人もいれば服を買う人や、釣り道具・ゴルフ道具など、とにかくどこかで使えば結局そこから回収されてしまう。

例えるなら、仮に月収30万の場合、1万円の物が30個買え、50万なら50個買えるように見えるが、それは現時点で50万が平均以上であるからであり、平均値が50万になれば”1万だった物””1万7千円”となり、結局それは”30個買える物”になるのだという事。

要するに、10年後に給料が上がっても、物価だけでなく税金等なども一緒に上がることになり、自身の体も物理的に衰えるわけだから、今貰う10万と十年後に貰う10万とでは当然その価値は全く違う。

とはいえ明日から急に給料が上がる事などまずありえないのだから、今まさに幸運でも拾い月収50万になるのでなければ、今から20年後30年後に、その時月収70万になっていたとしても、その時の物価も考えると、それは今の月収50万の50代の人と同様の話であり、すなわち、収入が上がれば幸せになると思う先には相応の(もしくはそれ以上の)人生という対価を支払う事になることもわかっていなければならないと思う。

そうであるから、お金を追い求めすぎても幸せになることは難しく、それどころか、その渦中にみずから入ることになってしまう。

良くも悪くもなく、平均年収というものがわかるという事は、人の一生涯に使う金額のようなものだって確実に出せるのだから、頭の良い人たちが計算してないはずも無い。

どちらにしても、その渦中にいれば、”今10個買えるもの”は、何年もたって給料が多少上がっても、自分の子の世代になっても、同程度の物はやはり”10個買えるもの”であり、その収入のなかでやりくりすることになる。

それは結局、働きにして与えられる給料が「30万」といったような単位ではなく、生涯必要な金額のうちの「0.2%」といったような形で支払われているからであり、だから、将来仮に月収50万になっても、それもまたその時の0.2%でしかなく、給料10個分の価値の物は、結局10個しか買えないという風にとらえたほうが正しいのではないかと思う。

だから、その為に働くのであれば、その行為そのもの(その仕事と置き換えてもいい)が好きでなければいつまでたっても同じサイクルから出ることがあり得ないのが当然なんだと感じる。

それは結局、月収3万などで働く途上国のベトナムの人も、(最低限普通に生活できる人なら)毎日食事をとっているわけだし、GDPが上がり月収10万になってもボロの原付がちょっと綺麗になる以外変わることはなく、やはり生活に追われるし、30万になれば、今の日本人と同様、綺麗な車が買えるようになるが、その生活水準を維持するために生活に追われるようになるのなら、それが幸せでなければ、ただ物が増えた人生になるだけだ。

 

セグウェイに乗るベトナムの子供

前回ダナンに行った時にも見かけたが、はだしでセグウェイ(もどき)に乗って遊んでいたりする現地の子供を見かける事がある。

セグウェイは知ってる人も多いと思うが、電動立ち乗り二輪車で、安いモデルでも大体3万円程度はする。

当然そんな高価なおもちゃを日本の子供でさえ買ってもらえる子は少なく、さらに言えば、その価格はベトナムでは月収に相当するわけだから、かなりの金持ちしか買えるようなものではないにもかかわらず、チラホラ見かけたりした。

憶測だけれど、このセグウェイ(もどき)もベトナムで生産されているモデルがあり、それだと安く購入出来てるのではないかと思う。

事実、これと同様に、正規品ではないのかもしれない(偽物という意味ではない)けれど、某スポーツメーカーの商品はベトナムではかなり安く購入する事ができるし、その安い価格でさえ、観光客は高く買っているという事らしい。

要するに、生活水準自体は日本の方が高いにもかかわらず、日本人でもちょっと高価で躊躇するようなものを、一般家庭のベトナムの人が持っていたりするものがあったりする事からも、幸せとは高価なものの所有によって決まっているわけではない事の表れではないかと思う。

 

終わりに

日本もヨーロッパと同様、先進国なわけだけれど、日本人がまだ野蛮だった時代からヨーロッパにはすでに現代に近い政治があったりして、人の生き方・働き方といった部分は、まだまだ追いついてないのではないかと思う。

それがゲームの場合「おま国」であったりなどがまかり通る(問題提起できるちゃんとした組織すらない)という形で表れてるのだと感じる。

 

ちょっと補足

今の日本の経済では、食事をとるだけでも相応の費用がかかるから、この社会で無収入で生きていくのは通常不可能だけれど、少なくとも、お金のために働くから、海外で5000円の物に圧力をかけても8000円で売れるようにするし、それを当然と受け止められなければ異端とされるし、それを買うのであれば、自身もまた何とかして価値(そのものの持つ本来の価値)以上の金額にするという事が必要になってしまい、それが仕事となると、好き嫌いとか言う事は「大人じゃない」といったような形で、当然としてまかり通るようになってるのではないかと思う。

だから幸せとは、「将来の結果(すなわち給料)として現れるのではなく「その道中にある」のであり、その結果、給料も100万の人もいれば10万の人もいるのは当然で、悔しがるような事ではなく、どちらにしろ、その道中である今を幸せと感じなければ、幸せを将来に見るのは、ただの運任せになってしまうのではないかと思う。