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『サラリーマンであるうちはサラリーマンを歩め』るのならそれに越したことはない。

模索期…

私が今、一般的には特殊とされるブログによる収入を行う中で、その考えに至った経緯を日記で触れていて、、

『フリーライファーさんに因縁つける人は…』では「塾に行けば幸せになるとは誰も言っていない」という表現を使ったり、、、『肉体労働では幸せになれない理由』では「労働では幸せになれない」という表現を使ったり、、、『リベラルアーツ不足』では「学歴が収入になるというわけではない」という表現を使ったり、、、

『会社辞めて海外に行こうと思った理由』では、セネカの「生の短さ」や、ロバートキヨサキや武井壮の話を引き合いに出したりしながら、その説明のようなものを展開しており、そうするとどうしても、学業批判にも、「サラリーマンになることが良くない」と言った感じに取られてもおかしくない表現になってしまって、

それについて、訂正・釈明、というか、「それは全ての人に対して言っているわけじゃない」という事を、誤解の生じないように残しておきたかった。

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『サラリーマン』という幸せ

私の考えや、生き方と言うのは詰まる所、私が見てきたすべてに依存しているのは当然のことで、

例えば、それは私の容姿(すなわち身長)が幼少期から多少小さい事で、子供時代は”カワイイ”等と言われることもあったが、それは”逞しさ”と表裏であり、すなわち、反面、学生時代ではモテやすい、スポーツ行事で活躍する事もなく、”イジメ”とまではいかずとも、小さいと、肉食系から標的にされやすいのは事実だし、学校のテストでは、教えられた公式を使わず答えを出すものだから「式が違う」と言われ、バツになり、そもそも点数がそんなに良くないのに、更に点が低くなってしまう事に憤りを感じたり、

家庭内でも、素晴らしいとまでは言わないけれど、特にひどくもない両親(特に父の方に対し)ではあるけれど、長年勤めた会社に負債を負わされ、その後、ガンを患い定年前に他界する父の姿、などに大きく左右されてしまいます。

だから、ただ「学校を卒業し、地方でも、大手企業の支社に入社し、まぁまぁのお給料をもらって生きる」と言う生き方をする多くの人たち(この言い方もやや角があるように思いますが、そうではなく、そうできるならそれは素晴らしい事だという当然の中で)が、良くないわけではなく、ただ、私はその人生では、幸せになり難い、もしくは、それで幸せになれた両親などを見れなかった。という事が関係してしまう。

この話を例えるのに、一人の人物像を想像してほしい

父は地場(じば)企業のサラリーマン、母はパートで働いているようなどこにでもあるような家庭で、特に収入がいいわけでもないけれど、まぁ悪くもない。

そんなどこにでもよくありそうな家庭の長男として産まれ、小学生になる。

 

そつなく学業はこなせ、とりわけ運動が得意なわけでもない、特に注目されることもないけれど、目立たないグループというわけでもなく、無難に小学校時代を過ごす。

 

地元の公立中学校に入り、部活は小学校から仲の良かった同級生とともに、ボールを使ったスポーツ系(バレーとか野球とか、とにかくそういったもの)に一緒に入部。

この時身長はまだ152と平均よりやや小さめ。

 

中学に入ると、やや体格に差が出てきだし、早くに大きくなりだしたものが、体格により自分のポジションを確かめるため、”イジメ”とは言われない程度に肩を押してみたり、からかってみたり、といった方法で自己主張始めるものが出てくる。

その中で、それほど大きくもなく、仮に大きかったとしても、そういった勢力争いにそもそも興味のない自分(架空)は、基本そういったグループとのかかわりもなく、部活や塾に精を出す。

 

中学2年になり、同じ塾に通う同級生と初恋(と言えるかもわからないけれど)を経験。それは、塾の中でちょっと手を繋ぐ程度だが、すごく楽しい時間。

 

中学3年になり、進学校を決めるが、初恋の相手とは、違う学校になり、お友達の延長線程度の拙い恋はそのまま自然に消滅。

 

高校でも、中学から引き続き、スポーツ部に入部。

入学後まもなく、成長期を迎え、”無難”に172程度になる。

やや大きくなったこともあり、中学から続けてきたスポーツで、レギュラーを任されたりするようになる。

その後、高2の時、自他ともに認める初の彼女が出来る。

 

高校3年ともなると、塾の帰りに多少遅くなっても親のお迎えなどなく、帰り道にデパートのフードコートでその彼女とドリンクバーだけ注文し、一緒に大学の受験勉強。

同じ大学を目指すが、それはかなわず、普通に大学進学後、その彼女ともそのまま自然消滅。

 

大学では、今まで続けたスポーツではなく、中学・高校にはなかった、ラクロス(?)とかそういったサークルに入る。

成長期の後はそれほど身長は伸びず、最終的には173程度。

体格もそれほど細くもないけれど、特にスポーツ系の人の中ではそれほど大きな方でもなく、元々温和な性格もあり、争ってまでレギュラーになる事もなく、ただ楽しむ程度。

と、いう事もあり、部室にいる事も多く、女子マネージャーと仲良くなる。

同級生からひやかされ、お互いやや意識もしたが、恋にまでは発展しない”気の合う友達”といった感じの仲。

 

その後、定期的に行われる交流試合で対戦した相手方のマネージャーに、中学時代の初恋の子を見つけ、そもそもお互い好意的だったこともあり、”普通”に意気投合。

 

お互いに青くソワソワした中学時代とは違って、当然彼女は大人び綺麗になっていて、こちらもニキビに悩む中学時代の自分(架空)とは違い、体格も”無難”に逞しく、声も”普通”に男らしくなっており、”普通”に恋人関係に。

大学も卒業し、学業も一通りこなしてきたので、それなりの企業に入社。

その彼女とはその後、アパートを借りて同棲。

彼女も雑誌出版関係に入社。

 

そんな二人だから、まもなく、「めでたくゴールイン(古)

その後、第一子誕生。

 

時には喧嘩することも当然あるけれど、基本的には大きな問題もなく、子供も大きくなっていく中で、自分(架空)は徐々に昇進していき、それほど悪くない給料になったことで、

扶養内に収める目的も兼ねて、当時彼女だった、(現)奥さんは会社を辞め、得意だった編み物を活かし、編み物教室の講師のバイトを不定期で始める。

 

今や、最初の子も7歳となり、いつの間にやらできた2人目の子は2歳。

人数も増えてきたこともあり、マイホームの夢を見だす。

会社でも、素の人柄の良さと、長年スポーツを続けたことにより、それほど接触(アタリ)負けしない事もあって、上司からも好意的に思われており、得意先からも好かれる好青年。

そもそも大好きな仕事で入社したというわけでもないけれど、そんなこともあって、仕事自体にやりがいも感じており、もう辞めるつもりなんて毛頭無い。

 

しっかりと人生計画を立て、マイホーム購入。

時には皆で旅行。

 

そんな奥さんや、少しずつ成長していく子供の笑顔の為に、明日からもまた働きに行く・・・。

 



 

そんな彼らは、”普通に普通よりやや良いものを、当然”無努力”というわけではなく、学校でしっかり勉強し、受験を突破し、最愛の人と出会う事ができ生きるのだから、”多分中には居るであろう彼ら”は、その生活は最高とまでは言わずも、素晴らしいものであり、もはや言わんとするならば、私自身もそれになれるのならば、それに越したことはないと思うのはホンネ、と言うか、そうなってないからわからないが、少なくともそういった人たちに、「その生き方は良くない」と言いたいわけではないという事。

だから、これで何が言いたいのかというと、「学業では叶わない」と言ってるのは、容姿など含むすべての因子によって左右される事象の中で、それで得られる人生とでもいうものは、「それでもいいと思えるもの」が得られて初めて思えるものだと感じる。

 

だから(だからが続くけど…)、必死にやりたくもない仕事をこなした末、定年なんてできずに、会社からは負債を負わされたような父の姿を見た、”普通に普通の容姿(身長、要するに男らしくある最低限の体格)にすらなれなかった私”の場合では、”普通”の人生を生きる事は彼ら以上に困難な事で、社会の言う”普通”とされるもの、”常識”とされるものに付き合っていては、私の人生は豊かに(いやいや、普通程度にさえ)なるものでもない。

 

*ただの身長コンプレックスに見えるので補足しておくと、(全く違うとも言い切れないが)、以前アメリカのどこかの研究機関の結果で、スポーツ選手のような体格に依存するものでは無く、普通のサラリーマンも体格の良い方が出世し=給料もいい人が多いという調査結果がでた。というのを見かけた。(どこかは忘れました)
それが示すように、(”学”などで多少変化するが)そもそも労働者である以上、収益は労働力に依存しており、だから単純に体格が良い方が高くなるに決まっている。
これは(センシティブな事柄なので取り間違えられないよう慎重に言葉を選ばないといけないが、、、)よく「女性の方が給料が安い」などと言われたりするが、これも女性だから給料が低くなる(傾向がある)のではなく、単純に男性より体格が小さいから。という方が自然だと思える。
だから現に、男性でも↑↑という結果が出ており、これは単なるコンプレックスではなく体格の小ささは実社会で不利だという事。(それに背が高い方がモテる・・・)

 

それは別に容姿だけの問題だけでなく、そもそも、「それでは嫌だ」と思う全ての人は、「嫌だ」と思うのならば、そう生きていたら、嫌に決まっているのだから、それはつまり、社会の普通とされる意識から引き起こされた問題で、「ちゃんと塾に行って、ちゃんと進学して、ちゃんと就職すれば…」と言ったような風潮に依存した考えだ。という意味で、「それは良くない」という表現を使っているのであり、”全てのサラリーマン的生活が「良くない」”と言っているわけでは一切ないのです。

 

当然、上記のような想定とは全く違う人でも「普通に雇われる人生(要するにサラリーマン)」がいいと思う人もいると思いますが、すなわち、「学歴により入社し、ある程度の年功序列と、安定した給料のサラリーマンがいいかどうか」といった問題は、私のような人生だから生じうる問題であり、そう行う人(それを普通に行える人)に対し、悪意もなければ、そうできるのならば、それは素晴らしい事だという事を、間違って捉えられないように、釈明しておきたかった。

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おわりに

今回のタイトル『サラリーマンであるうちはサラリーマンを歩め』は、小説家(哲学者?)トルストイの著書『光あるうちに光の中を歩め』を引用して使ったのですが、、

それの意味するところは、私の解釈とは違うかもしれないけれど、私がこの言葉に対し思うのは、「”そうできうる環境”にあるのならば、そう行えることが幸せだし、そう行い続ける方が望ましい」と言ってるように感じる。

光あるうちに光の中を歩め改版 (岩波文庫) [ レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ ]

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それは、この本の中の主人公たちのように、そもそも優遇された環境の中で人生を模索出来る人たちばかりでなく、例えば、何かの事件が起きた際、そもそもそういった人たちの多くが、やや(もしくは、かなり不遇な環境(世界規模で見た場合、超貧困地域など)にある事も多く、

だからといって、その犯罪は当然許せるものではないんだけれど、その全ては、その犯人の堕落によって生じた結果とも限らず、あえて言うならば、少なくとも、もうその人には「それしかない」と思える位追い込まれた結果なのかもしれない。

だから、”普通に普通を得られる”のならば、それを歩めることが感謝に値するものだし、少なくとも不遇でない事だけは間違いないように思う。

結局、個々の幸せは個々に依存しているのだから、現状が「用意された”無難”とされるものだからよくない」という事でもないし、「それでは幸せになれない」が、全ての人に当てはまるという事でもなく、「それでは幸せになれない」と感じるのならばのならば、”それ以外”の生き方をする事が、幸せになる可能性もあるのではないのか?

という事で、「幸せは『学業(学歴)で叶う』わけではない」と言った表現を使っている、という事なのです。

今後も、特に雑記の中に、そういった批判的な表現に感じる事がまた出てくる事があれば、それは、そういった生き方を行う人に対して、批判をしているのではなく「そう生きる事ができない」場合「どうすればいいのか?」といった自問に対する自答だとご理解していただければ幸いです。

 

191128_加筆 210609_編集 2402_編集 (内容の変化は伴わない)

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