生まれが良いから、心から綺麗ごとが出てくるのだと思う

雑記

プロフィールに肩書きを書くブロガーは多い。

 

読者に親近感を持ってもらうためや、運営者の信頼性を高めるためなんだろうが、素晴らしい肩書きは時として胡散臭くもある。

 

「学生時代に海外に留学後、、」や「大手商社に就職したのち、、」というものを目にすると事実はどうあれ、信頼性より、自慢に感じてしまう。

 

けれども一般的には「元エリート大生が教える○○」や「元大手金融商社マンが教える○○」といった本の方が、「凡人が教える稼ぎ方」なんて本より売れるのだから仕方がない。

 

「高卒でもできる○○」も、ある意味ではそれと同じ手法の逆バージョンの肩書き商法としてあるけれど、どちらにしてもそのやり方は胡散臭くみえる。

 

特に裕福なほうに属する人生を歩んできた人の内容は、知識で知りえた社会や、正しくあるべき世界を見た人生から善を語るその言葉に、実際間違いはなく、そうであるがゆえに不平等であるこの世界でいかに楽しく生きるかはまでは語られていない。

 

「ロンドンの大学に入学しblabla」、「大手商社に入社しblabla」、「その後子供をもうけてblabla」。

 

嫉妬は無意味であり、八つ当たりにしかならないが、そもそもそういう人生の中で”普通”を語る人は、たまたまの不遇によって感じる人の劣等を理解できない。

 

その劣等の中で規律を守り、人生を考え、どうすれば豊かになれるのかと考える事と、そもそも大学には行けて、サークルなんかでそれなりに異性と出会い、恋もして結婚できる前提で考える幸せの定義は根本的な部分が違う。

 

そういうと嫉妬のようになってしまうけれど、そんな世界で「発展途上の国に行けば日本人というだけで優遇される」という事実を言うのは必然だと感じる。

 

以前読んだ「ベトナムでロングステイ」という本に「経済格差を利用した遊び」という表現があった。

 

それは下世話な意味ではなく、日本にとっては決して大金ではない10万でも十分暮らせてしまうという事実を表現したもので、どう取り繕ってもその事実はゆるぎない。

 

実際、高級リゾートに1週間でも滞在しようものなら平気で数百万かかるのだから、同じ10万の価値の違いは「経済格差」以外に表現が見当たらない。

 

それを汚いというのなら、人々が読みたがる、「元○大生の」と関された本を書ける、”○○大学に行かせてもらえた家庭”に生まれたことによって書くその本も、”ロンドンに留学させてもらえる家”に生まれた人が書くブログも”汚い”はず。

 

要するに優遇されたものの良心に不遇者は委ねられていて、不遇なものの親切より優遇されたものの親切のほうが利益的効果も高く、そうであるなら、地域の違いによる不遇な人に、どういった形であれ利益をもたらす、生まれた地域による優遇を利用した「経済格差を利用した遊び」もまた正しき行いといえるのではないかと思う。

 

ただ「10万でも東南アジアに行けば豊かになる」という根本には、10万でも豊かになれるのではなく、10万の価値が50万相当になるからであり、豊かさをお金で換算してる事に変わりはない。

 

結局の所、「お金」的な解釈で幸福や豊かさを考えてしまうと、持ちえなければ豊かには成りえないことになってしまい、それでは「自分のほうが持ちえている」といった自己満足の世界で、見栄を張りあう疲れた人生になる。

 

人生を点数で言うのもあれだけれども、あえて表現するなら総合的に51点以上の人生を持つ人が感じる人生論と50点未満が感じる人生と、極端に良い90点や、その逆の人が感じうる世界は違いがあって、

 

より良い環境に生まれた人ほど、正義や善を社会論的、大衆的な物の見方から発言するだろうが、より悪い環境に生まれた人ほど、目の前にある事実が唯一の真実で、きれいごとでは食えないという事を語る。

 

だからといって本質的悪は認められるものではなく、優遇された人がお金の対価で得る幸福も犯罪にはならない。

 

その不平等な世界で「持ち得ない立場」でも幸せになるには、まず損を被ってでも、無償で自分の出来うる価値を他人に与える事しかない。

 

そこに矛盾が生じるけれど、そもそも収入は人からの感謝より発生するものであり、収入・報酬だけのための仕事は、お互いお金のために動いている限り、持ち得ないほうにとってはどれだけ収入が良くとも楽しいものではなく、楽しくなければ幸せを感じるわけもない。

 

ただ「無償で価値を与える」というのは「誰にでも親切に」という事ではない。

 

えてして、「だまされ全てを失った資産家」というようなものは、無償で価値を与える事と、親切を履き違えてしまう事で、利益目的の人間に奪われてしまっているのだと思う。

 

その選択は、自分に無償で価値を与えてくれる人や、その行為を理解してくれる人であること。

 

そうしなければ、ただの偽善となって利益のために近づくものの餌食にもなりえる。

 

利益を見ている人は、お互いが利益でつながり、価値を見る人は、価値によって繋がる。

 

利益からは「もっと」という要求が生まれ、価値からは「ありがとう」の感謝が生まれる。

 

価値をデッチ上げて稼ぐ人もいるけれど、それを否定することに価値はなく、どうあれ他者の批判より、人の役に立つ事に時間を割くことに価値がある。

 

だから自分より稼いでいる人に嫉妬したり、転売などという方法が正しいかどうかを議論には意味がない。

 

もち得ない方は往々にして卑屈になり批判的になることで、より一層負の連鎖をおこし、うまくいかない原因になっていると思う。

 

だからこそ持ち得ないのなら、あえて稼ぐ事は考えず、無償で価値を与える事しかないと思う。

 

数多の成功者にそれぞれエピソードがあり、様々な表現で語るけれども、どれも表現が異なるだけで、結局は人に価値を与える事で成功している。

 

私利私欲で自分だけが稼ごうとして成功する事なんて、皆無ではなくても難しすぎるし、特に持たないほうは、資金力で価値を作り出すことは不可能で、相手のために自分に何が出来て、何が足りないのかを考える事で始めて幸せになるためのスタートラインに立てるように思う。

 

えらそうな事をいうつもりは無いけれど、「持た無いからこそどうするべきか」を考えると、結局、善良である事の正しさを履き違えない事が重要なんだと思う。