稼げる人の判断基準は?月収いくら以上?資格で稼ぐ?それとも・・・

雑記

収入は多いにこした事は無いけれど、それによって生じる責任や労働時間も合わせて考えなければ、仮に月収120万でも、

週6~7勤務、1日20時間の激務だったら意味がない。

と思う。

 

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稼げない有資格者と、稼げる無資格者の違い

学者は実験結果に基づいて答えを出す。

その結果は間違える事は無いが、それはある意味後出しじゃんけんとも言え、単なる答え合わせでしかなく、実経済で利益を上げる人は先に答えを出す必要がある。

 

ここで、ある一人の消費者が、一定の所得をさまざまな財の購入にどのように支出すればよいか、考慮している状況を考えよう。たとえば、米への支出をもう100クローネだけ増やした場合の効用の増加がコーヒーへの支出を100クローネだけ減少させたときの効用の減少より大きければ、コーヒーへの支出を減らして米への支出を増加させたほうが、より「得な」選択とされるだろう。
引用元 :Wikipedia 限界効用理論

 

経済学の限界効用理論に基づくと、上記から経済学者は、利益の良し悪しを(仮に)投資額を10%分増やした時と10%分減らした場合とでどちらの方が利益が増えるか?」といった考え方から出してるように見える。

 

商売で成功する人も、はたから見れば結果的にはそう動いてるように見えるが、実際は、先に理屈では言い表せない感性が働いているように見える。

 

そうでなければ、上記のような理論を知れば、どのような商売でも確実に成功するものになり、そうであるならば、経済学を学べば、もれなく全員経済的成功者になるはずだからだ。

 

当然そうはならない。

 

なぜなら、藤田田に代表されるような、経済的成功者を見ると、あるものに投資量を増やすか減らすかといった判断は、後から来るものではなく、先だっており、それは、個の優れた感性としか言いようがない。

 

1度2度ならば運否天賦もあるだろうが、人生を通して、多くの利益を生み出すには、毎度投資した後に結果を見ていては成り立たない。

 

膨大なデータから、結果を予測することも可能かもしれないが、多くの成功者はどちらかといえばそうではなく、直感に近い感覚で先を見通してる。

 

当時、将棋棋士 羽生善治さんが、「将棋がうまくなるほど数手先しか読まなくなる」というように答えられていたのを目にしたことがある。

 

私のような超ド素人の場合10手先読めるより、20手先を読んでる人の方がほぼ間違いなく強いかもしれないが、当時将棋AIについて語られていた羽生さんが、うろ覚えだが「3手先位しか読んでない」と答えられていたように覚えている。

 

現在では、将棋AIの進化も目覚ましく、AIには最も難しいと言われた碁でさえ、”アルファ碁”のような人の思考に似せたAIも出てきているが、

その当時の将棋AIは、膨大にある手から「なんて先まで読めるかのみ」に集約されており、そもそも優れた棋士は数手先迄しか読んでないという、羽生さんの発言にわかるように、仮に1000手先まで読めても、結局次の手がその読みから外れた1手であれば、その1000手全てが無意味になる。

 

だから、その前段階で感じる能力を持っているか、そうでなければ、その能力を伸ばす・育てることが重要だという事。

 

すなわち、本物になればなるほど、データより違和感・直感のようなもので行動しているという事の表れだと感じる。

 

これこそまさに、経済学を学問として学ぶ事と、実経済で成功する人の違いの表れのように思う。

 

リアルな世界というものは、ある程度までは定石に則る方法が進歩も早く、効果が表れやすい一面があるが、ゲームと違い、将棋のようなターン制でもなければ、ルール(当然、法律はあるが)も明瞭ではなく、それだけではない。

 

これは学問(定石)が不必要と言っているのではなく、ただ単に方向の違いであり、目標とするものが経済の理論ならば、学問により、その衰退や繁栄理由を説明できるようになるが、

経済的成功を目標とするならば、過去から”なぜ衰退したか、及び、繁栄したか”といった物を、ただの理屈ではなく、その事実を次訪れる結果として先に当てはめ考える能力がなければ利用できない。

 

それでも、結果がマイナスになることも多くあり、成功者はそこから学ぶことで直感の精度もあがり、結果、徐々に投資(及びビジネス)で成功していくのだと思う。

 

収入だけを見るならば、知識を多く得ればそれだけ、より良い収入を得るだろうが、それまでに使った学費や、その後の就職先の労働時間も合わせて考えなければならず、

結果として、その労働が好きでなければ、多少収入が良くとも、嫌な事に人生の多くの時間を割くことになってしまい、多少収入の低い人が無理せず、中古の軽に乗る人生とどちらが豊かなのかはそこだけでは判断は出来ない。

 

剰余労働

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労働者は労働により収入を得るが、それは100%支払われることはなく、投資家や経営者は労働者の剰余労働分から収入を得ている。

 

簡単に言いなおすなら、これが雇う側の行う”搾取”の正体のようだ。

 

剰余価値(Wikipediaリンク)

 

だが、これは、資本社会では当然の事であり悪事とは違う。

 

労働者が搾取される理由は単純で、労働者は収入の過程で最も苦労し重要な、労働であれ、作品であれ、研究結果であれ、『行った労働を収入に変換する”考える作業”』を行っておらず、これを成し遂げた者がその労働を賃金で購入するからだ。

 

ただしこれには見えない部分も大きく、その搾取額が適正かどうかの判断は難しい。

 

単純に例えると、同様の労働を与える会社が2社存在しても、そこで働く従業員の給料は完全に一緒ではない。

 

要するに搾取する金額はその会社の社長、経営者、投資家などにより決定されるという事。

 

当然、極端に差があればストが起きたり、労働者を失うので、ある程度は平均値に寄っていくだろうが、労働量=収入額に完全な一致がないことは間違いがない。

 

それが公平でないと思うのならばそれは当然のことで、そもそも社会が公平ではないという事実がある。

 

先に述べた、収入を得るのに最も難しい”行動を収入に変える作業”とは、自身で行わなければならないという決まりはなく、親の代などから受け継ぐ(会社や工場)ことも多くあり、彼らは苦労や、努力、勤勉によって得たわけではない。

 

それでも経済には公平の一面は大きくあり、しっかりと収益に変換さえできれば、出生や、容姿、知識量などもろもろの運に関係する物が関係なくなる。

 

どうあれ、労働者として稼ぐならば、体格に依存してしまうし、資格でより高い収入を得るならば、教育の良し悪しに依存してしまう。

 

これを良くないと言ってるのではなく、現社会がそういった仕組みの社会なのだから、それに適応するのが適者生存であり、当然、法律順守のもと行動すれば、雇った労働者の剰余労働分で得た収入も悪事ではないという事。

 

そのような人は、経済学であれ学問の先になりえるものではなく、経営によるリスクや健全な運営に必要なスキルを、資格ではなく、学び持つ人になる。

 

なので、こういった人は、自分自身が資格を持つ必要はなく、弁護士資格を持つ人を雇い、税理士資格を持つ人を雇い、経営コンサルタントを雇い、体力のある労働者を雇う事で会社を運営する。

 

これを学校に当てはめるなら、数学のテストでは数学が得意な人をお金で雇い代わりに答えてもらい、社会、英語、~以下略~、と、とにかくすべての教科を自分で答えるのではなく、自分より得意な人に答えてもらう方法をとる事と同一に思う。

 

けれども、当然それは考えずともわかる通り、この方法は学校では完全にアウト。

 

そうであるがゆえに、社会に出ても自身ですべて答えなければならないような錯覚に陥ってしまう。

 

要するにそのような教育とはつまるところ”雇われるためのスキル”であり、”雇うためのスキル”ではない事に間違いない。

 

そうやって身に着けたスキル(資格)で雇われるのだから、その作業(仕事)がそもそも好きでなければ、生涯その好きでない労働を自ら強いることになり、好きでもない事でキャリアを積めば、出世すればするほど収入と共にその労働に対する責任も増し、その労働にかかる時間も増えることになる。

 

これが嬉しいかどうかはその人それぞれであり、雇われたいのであれば、より難しい資格を持つほうがより高い金額で雇われ、より難しい仕事が任せられ、それに生きがいを感じるのだと思う。

 

けれども、その方法では当然1人力であり、ロバートキヨサキ著『金持ち父さんのキャッシュフロークワドラント』では、”1億以上稼ぐ個人事業主は稀にいるけれど、休む暇もないほど大変”といった言葉で言われていた。

 

結局どうしたらいいのか?

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この話は結局ここに帰結すると思う。

 

つまり、経済的自由を得るには、自分自身が好きでもない労働で稼いでいる限り不可能であり、どうあれ労働者から脱するしかなくなる。

 

そして、それは、経営者や投資家になる資格などというものが存在しない事からもわかる通り、通常勉強で得るには難しく、少なくとも教科書から学べば、多くの場合、”経済学の修士”等といった資格になってしまい、結果、その資格を持って雇われる側になってしまう。

 

では結局そもそも持ち得てない人がそうなる為には、”元々持ち得ていない(すなわち資産家の家庭ではない)所から成功した人”の言葉から学びとるしかないように思う。

 

そういった多くの成功者の言葉を要約すると、

「失敗を恐れない事」であり、「好きなこと(得意な事)を突き詰める事」であり、「(跳躍前が一番低いのだから)他者と自分を比べない事」であり、「人をだまして得ない事」であり、「生きてる実感のある事」などなど、で、

多くの場合、年商数百億といったケタ違いの人物ばかりがクローズアップされるせいで、その金額に目が行ってしまうが、彼らの多くは結局、好きな事、得意な事を突き詰めた結果だという事を見る必要がある。

 

なので、その結果として収入が増えれば、それが本当の意味での経済的自由であり、まず先に収入の良さから仕事でも資格でも判断すると、経済的に少しばかり多く得る事ができても、自由は得られなくなるのだと思う。

 

結局、全ては、向き不向きであり、経済をどれだけ学ぼうとも、その道で稼げる人はそもそもそれに向いた人としか言いようがないもので、向いてないにもかかわらず無理に得たスキルでは、得意な人ほど稼げないにもかかわらず、その道で稼げる人より苦労するものになるのは当然の結果だ。

 

なので、みずから考え実践する中で、失敗したり修正したりする工程がそもそも楽しいと感じないのなら、そういった人は福利厚生(すなわち給料)の為に働くほうが向いてる人という事なんだろう。

 

終わりに

ここ最近ずっと日本にいて、ベトナムに海外旅行に行けてない事や、まだまだブログ収入では運営費程度という事もあり、こんなことばかり考えてしまって、久々に思いっきりグチのような雑記を書いてしまいました。

 

とはいえ、上記の考えは、わたし自身が親から、学歴が無いという理由から体格的にも完全に不向きな肉体労働を斡旋されて、一時期まったく楽しくない生活を送り、なぜ生きてるのか?なぜそうまでして(一定以上の)収入がいるのか?などと考え、

結局「海外に行きたい」という願望から会社を辞めて、現時点ではブログ収入だけでは当時よりガッツリ収入は減りましたが、蓄えを切り崩してでもベトナムに行き、ブログを使い少しでも有益な情報を提供し、その事で少しでも収入になるのが楽しく、生きがいを感じるようになったというのは間違いありません。

 

海外で一人旅をしていると、楽しい事ばかりじゃないけれど、そのすべてが楽しいと感じるかどうかが、そもそもやりたい事かどうかと関係していて、やりたい事で稼げるから楽しいのだと思う。

 

なので、そういった事から、今回のタイトルを総括すると、”稼げる”とは実際は稼ぐ金額が重要なのではなく、そもそも、

”得意な事、やっていて楽しい事から収入を得た先にあるもの”

なんだと思います。

 

20191007_ タイトルを短く変更。意味変更の伴わない表現等の変更。

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