子供の頃は収入は多いにこした事は無いと思うけれども、必死に資格を得て入った大手企業が超ブラックな激務だったりする事を、親や先生は教えてくれない。
資格で稼ぐ人と、無資格で稼ぐ人の違い
学者は実験結果に基づいて答えを出す。
その結果は間違う事は無いが、それはある意味後出しじゃんけんとも言え、単なる答え合わせでしかなく、実経済で利益を上げる人は先に答えを出す必要がある。
ここで、ある一人の消費者が、一定の所得をさまざまな財の購入にどのように支出すればよいか、考慮している状況を考えよう。たとえば、米への支出をもう100クローネだけ増やした場合の効用の増加がコーヒーへの支出を100クローネだけ減少させたときの効用の減少より大きければ、コーヒーへの支出を減らして米への支出を増加させたほうが、より「得な」選択とされるだろう。
引用元 :Wikipedia 限界効用理論
上記を参考にすると経済学者は、利益の良し悪しを「(仮に)投資額を10%分増やした時と10%分減らした場合とでどちらの方が利益が増えるか?」といった考え方から出してるように思える。
商売で成功した人も、結果だけ後から見るそう動いてるように見えるが、実際は、理屈では言い表せない感性が先に働いているのではないかと感じる。
そうでなければ、上記のような理論を知れば、どのような商売でも確実に成功するものになり、そうであるならば、経済学を学べば、もれなく全員経済的成功者になるはずだからだ。
でも、当然そうはならない。
事実、日本屈指の経営者(伝説の商人)藤田田(日本マクドナルド等々の創業者)の著書『ユダヤの商法』を読むと、あるものに投資量を増やすか減らすかといった判断は、後から来るものではなく、先だっており、それは、個の優れた感性としか言いようがない。
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1度2度ならば運否天賦で成功しえたとしても、人生を通して多くの利益を生み出すには、毎度投資した後に結果を見ていては成り立たない。
膨大なデータから、結果を予測することも可能かもしれないが、多くの成功者はどちらかといえばそうではなく、直感に近い感覚で先を見通してる。
当時、将棋棋士 羽生善治さんが、「将棋がうまい人ほど数手先しか読まなくなる」というように答えられていたのを目にしたことがある。
私のような超ド素人の場合10手先読めるより、20手先を読んでる人の方がほぼ間違いなく強いかもしれないが、当時将棋AIについて語られていた羽生さんが、うろ覚えだが「3手先?位しか読んでない」と答えられていたように覚えている。
現在では、将棋AIの進化も目覚ましく、AIには最も難しいと言われた碁でさえ、”アルファ碁”のような人の思考に似せたAIも出てきているが、
その当時の将棋AIは、膨大にある手から「なんて先まで読めるかのみ」に集約されており、そもそも優れた棋士は数手先迄しか読んでないという、羽生さんの発言にわかるように、仮に1000手先まで読めても、結局次の手がその読みから外れた1手であれば、その1000手全てが無意味になる。
だから、その前段階で感じる能力を養い・育てることが重要だという事。
すなわち、本物になればなるほど、データより違和感・直感のようなもので行動しているという事の表れだと感じる。
これこそまさに、経済学を学問として学び収入を得る人と、某チューバーのような資格なんて関係なく収入を得る人の違いとして表れているように思う。
リアルな世界というものは、ある程度までは定石に則る方法が進歩も早く、効果が表れやすい傾向にあるけれども、ゲームとは違い、将棋のようなターン制でもなければ、ルールも明瞭ではなく(当然、法律はあるが)、それだけではない。
これは学問(定石)が不必要と言っているのではなく、ただ単に方向の違いであり、目指す先が経済の理論ならば、知識によって、衰退や繁栄理由を説明できるようになるが、実経済では資格に関係なく、次訪れる結果として先に当てはめ考える能力がなければ利用できない。
だからといって、とんとん拍子にうまくいくとは限らず、それでも失敗することは多くあると思う。
その、世にいる成功者全てが類まれな人物ではなく、多くの成功者は、初めから成功しうるのではなく、その失敗から学びとることで、より直感の精度もあがり、結果、徐々に投資(及びビジネス)で成功していくのだと思う。
それが本当の意味での勉強の価値・失敗の価値ではないのだろうか。
知識を多く得れば、それだけより高い収入を得る事も可能かもしれないが、それまでに使った学費や、その後の就職先の労働時間も合わせて考えなければならず、
結果として、その労働が好きでなければ、多少収入が良くとも、嫌な事に人生の多くの時間を割くことになってしまい、多少収入の低い人が無理せず、中古の軽に乗る人生とどちらが豊かなのかはそこだけでは判断は出来ないように思う。
経営者に資格は無い
投資家や経営者は、有資格者を雇い収入を得る。
雇われた者は、労働時間に対して収入を得るが、それは100%支払われることはなく、投資家や経営者は労働者の剰余労働分から収入を得ている。
これが搾取の理由のようだが、これは法に反してもいなければ、当然悪事でもない。
労働者が搾取される理由は単純で、収入の過程で最も苦労する、労働であれ、作品であれ、研究であれ、『行った労働を収入に変換する”作業”』をすっとばして、労働を収入の対価としているからだ。
ただ、これには見えない部分も大きく、その搾取額が適正かどうかの判断は難しい。
当然、極端に差があればストが起きたり、労働者を失うので、ある程度は平均値に寄っていくだろうが、労働量=収入額は完全に一致する事は無い。
それが公平でないと思うのならばそれは当然のことで、そもそも社会が公平ではないという事実がある。
先述した、収入を得るのに最も難しい”行動を収入に変える作業”とは、自身で行わなければならないという決まりはなく、先祖代々から受け継ぐ(会社や工場)ことも多くあり、その場合彼らは苦労や、努力、勤勉によって得たわけではない。
それでもこのシステムには公平な一面も大きくあり、収入への変換作業には、出生や、容姿、知識量などもろもろの運に関係する物が関係なくなる。
どうあれ、労働者として稼ぐならば、体格に依存してしまうし、資格でより高い収入を得るならば、教育の良し悪しに依存してしまう。
これを良くないと言ってるのではなく、現社会がそういった仕組みの社会なのだから、それに適応するのが適者生存であり、当然、法律順守のもと行動すれば、親から受け継いだ会社で労働者を雇い剰余労働分で得た収入も悪事ではないという事。
そのような人は、経済学であれ社会学であれ、学問や資格でなり得るものではなく、経営によるリスクや健全な運営に必要なスキルを、資格ではなく、学び持つ人になる。
なので、こういった人は、自分自身が資格を持つ必要はなく、弁護士資格を持つ人を雇い、税理士資格を持つ人を雇い、経営コンサルタントを雇い、体力のある労働者を雇う事で会社を運営する。
これを学校に当てはめると、
数学のテストでは数学が得意な人をお金で雇い、代わりに答えてもらい、社会、英語、~以下略~、と、とにかくすべての教科を自分で答えるのではなく、自分より得意な人に答えてもらう方法をとる事と同一に思う。
けれども、当然それは考えずともわかる通り、この方法は学校では完全にアウト。
そうであるがゆえに、社会に出ても自身ですべて答えなければならないような錯覚に陥ってしまう。
要するにそのような教育とはつまるところ”雇われるためのスキル”であり、”雇うためのスキル”ではない事に間違いない。
そうやって身に着けたスキル(資格)で雇われるのだから、その作業(仕事)がそもそも好きでなければ、生涯その好きでない労働を自ら強いることになり、好きでもない事でキャリアを積めば、出世すればするほど収入と共にその労働に対する責任も増し、その労働にかかる時間も増えるのは当然の結果だと思う。
これが嬉しいかどうかはその人それぞれであり、編み物教室に通えば編み物ができるようになり、ピアノ教室に通えばピアノが弾けるようになり、危険物取扱い講座に通えば危険物取り扱いができるようになる。
なので、その資格で雇われたいのであれば、より難しい資格を持つほうがより高い給料で雇われ、より難しい仕事が任せられ、それに生きがいを感じるのだと思う。
けれども、その方法では当然1人力なのだから、
ロバートキヨサキ著『金持ち父さんのキャッシュフロークワドラント』の中で、「1億以上稼ぐ個人事業主は稀にいるけれど、休む暇もないほど大変」といった言葉で言われていたように、稼げれば稼げるほど楽ではなくなる。
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結局、持たざる者は、どうしたらいいのか?
この話は結局ここに帰結すると思う。
上記のロバートキヨサキさんは上記の本の中で、「本当に幸せになりたかったら、投資家しかありえない」と言うような事を述べられていた。
これは当時の時代背景、というか、シンプルに言えば、”ユーチューバー”や”インスタグラマー”など(ブロガーも)のように、自分らしくありのままを収入に出来る人(簡単とは言ってない)が存在しなかった時代なので、”楽しい労働が基本的にはありえない”という発想からきてるのだと思う。
ただし少なくとも、経済的自由を得るには、労働を行っている限り、自由に行動が出来なくなる(好きな時間に起きたり、仕事内容を選んだり、もっといえば、好きなときに旅行に行くなどの全て)のだから、収入を労働から得ていては、収入が上がると同時に、自由は減るというのには間違いないように思う。
そして、経営者や投資家になる資格などというものが存在しない事からも、通常それらは勉強で得られるものではなく、少なくとも教科書から学べば、多くの場合、経済学の”修士”等といった資格になってしまい、結果、その資格を持って雇われる側になってしまう。
とはいえ、そもそも、資産家でもない、普通の家庭の場合、投資家なんかにそうそうなれるものでも無いのだから、少しでもその労働が好きかどうかが関係してくるのだという事。
では結局、勉強しても好きでもない仕事に就かされ、かといって、投資家に慣れるような家庭に産まれてない一般人はどうしたらいいか?というのは、
”もともと持ち得ていない(資産家の家庭ではない)所から成功した人”の言葉から学びとるしかないように思う。
そういった多くの成功者の言葉を要約すると、
「失敗を恐れない事」であり、「好きなこと(得意な事)を突き詰める事」であり、「(跳躍前が一番低いのだから)他者と自分を比べない事」であり、「人をだまして得ない事」であり、「生きてる実感のある事」などなど、で、
多くの場合、年商数百億といったケタ違いの人物ばかりがクローズアップされるせいで、その金額に目が行ってしまうが、彼らの多くは結局、好きな事、得意な事を突き詰めた結果だという事が一番重要に思う。
なので、その結果として収入が増えれば、それが本当の意味での経済的自由であり、まず先に収入の良さを見て、仕事にしても資格にしても判断すると、周囲より少しばかり多くの収入を得る事ができても、その分自由は減っていき、大切な家族の時間さえ取れなくなってしまう。
結局それが、窮屈な人生に感じてしまったりする原因になってるのだと思う。
結局、全ては、向き不向きであり、「勉強で資格を得ても稼げない」という事ではなく、その道で稼げる人はそもそもそれに向いている人としか言いようがないもので、向いてないにもかかわらず無理に得たスキルでは、得意な人ほど稼げないにもかかわらず、その道で稼げる人より苦労するものになるのは当然の結果だ。
なので、今の仕事が嫌でなく、収入から好きな事が多少でも叶っているのなら、福利厚生でも幸せに生きれる人なんだと思う。
終わりに
ここ最近ずっと日本にいて、ベトナムに海外旅行に行けてない事もあり、こんなことばかり考えてしまう・・・
とはいえ、上記の考えは、わたし自身が親から、学歴が無いという理由で、親から体格的に完全に不向きな肉体労働を斡旋されて、一時期まったく楽しくない生活を送り、なぜ嫌な事をしてまで生きてるのか?なぜそうまでして(一定以上の)収入がいるのか?などと考え、
まだまだ働き盛りの年齢で、ガンを患い、早々に他界した父を見て、結局「海外に行きたい」という願望から会社を辞めて、現時点ではブログ収入だけでは当時よりガッツリ収入は減りましたが、蓄えを切り崩してでもベトナムに行き、ブログを使い少しでも有益な情報を提供し、その事で少しでも収入になるのが楽しく、生きがいを感じるようになったというのは間違いありません。
海外で一人旅をしていると、楽しい事ばかりじゃないけれど、そのすべてが楽しいと感じるかどうかが、そもそもやりたい事かどうかと関係していて、やりたい事で稼げるから収入量とは関係なく楽しい人生にもなるのだと思う。