肉体労働ときいて「体力的にきついけど給料がいい」と連想するのは、経験の無い人が映画やアニメなんかの表面だけの耳障りのいい情報のみで想像する話だと思う。
実際、映画『グッドウィルハンティング』で、主人公と親友が工事現場でハンマーを振るいながら人生を語らい、仕事終わりに夕日眺めてコーヒーを飲む。なんてシーンもありましたが、実際働くと映画のようなのどかな雰囲気ではなく、常に大けがと隣り合わせの過酷な重労働なうえに、労働時間も優に超え、陰険な現場監督からはわざと足を踏まれ暴言も吐かれる。
そんな労働基準やコンプラアインスなど空理空論の世界だった。
現制度最低学歴の私が、会社を辞めてブログを始めたきっかけでもあるこの話が、ありがたい事に海外の掲示板にリンクされて、マルクスだとかの資本論?で議論をされたり、中には30分もかけて読まれていかれる方もいたりして、大変ありがたい事なのですが、、
リンクされたフランス語?のサイトも翻訳によると「労働=良くない」といった感じで捉えられていて、私の思う労働についての解釈とは若干違う解釈をされており、解釈は人それぞれなのですが、途中で終わられると、この話の真意がより取り違えられてしまうと思い冒頭として追記しました。もし読み進められるのであれば、できれば最後まで(最後だけでも)目を通して頂ければと思います。
肉体労働の真実
以前、私がやっていた肉体労働は「解体業(ボーリング業)」といわれるもので、小柄なことも相まって、それは壮絶極めるものでした。
粉塵の量に防塵メガネはすぐに見えなくなり、防塵マスクも真夏の隔離された中では特に息苦しく、つけてなんていられない。
3階から4階の足場へ荷物を受け渡すとき、環境によっては命綱をかける場所が見当たらず、ぼやぼやしてると怒鳴られるから、不安定な足場でも気にしていられない。
機械はどれも10キロや20キロ、中には50キロをゆうに超え、コンクリートさえ簡単に切ってしまう機械はどれも人に当たれば大けがどころでは済まない。
たかが金づちでさえ、アンカー(コンクリートの中に打ち込むもの)打ち込み用に作られたハンマーは、日曜大工のソレとは違い、1キロを越え、添えた手を誤って叩いてしまえば、良くて青あざ。
かといって、しっかり打ち込まないといけないから、恐る恐る振り下ろすことは出来ず、たかだかハンマーでさえ、毎回毎回が怪我と隣り合わせ。
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都心の現場に行くのに朝4時半には起床出社。
利益目的の仕事では常に納期ギリギリで残業しても仕事は終わらず、寮に帰ると夜の9時~10時。
当然間に合わないから、日曜出勤も日常茶飯事。
確かに資格も持たず、入ったばかりにしては給料は多少良く見えるけれど、時給換算では決して高くもない。
仕事もそれぞれ大変な事はあるから、肉体労働だけが大変とはいわない。
事実営業マンだった父は、常に売り上げの事でノイローゼ気味だったし、結局ていよく会社から負債を負わされ、はっきり言ってそれが原因でがんを患ったのじゃないかとさえ思う。
でもそんな精神的疲労は肉体労働には少なく、体力的にきついだけと思うと大間違いで、それは会社にもよるのだろうけど、少なくとも社員に高待遇の会社なんて名門大学でたって確定してないのは大手企業の「過労でどうの・モラハラでどうの」とかのニュースを見ると想像にたやすい。
話を戻すと、仕事も納期におわれず、のんびり出来るなら事故もおきないよう慎重に出来るけど、利益至上が当然の仕事でそんな悠長な事は言っておられず、労働者はコマのように使われる。
身体に悪い粉塵が飛び舞う中でも、息苦しさからマスクなんてつけてられないし、頭上からは数百キロレベルの落下物はあるは、汚水による科学やけどで一生消えない傷跡も残った。
体格のいい上司から急がされ、フラフラで足場を上ると、注意力も散漫で、地上7階から落ちそうにもなる。
体格により優位性を主張する人が多いこういった場では、小柄だと詰所でも肩身は狭く、端に座ることになり、陰険な現場監督からはわざと足を踏まれたりもする。
労働法なんてそんな場で言ってられない。
多分それを言い出したら、今動いてる現場の殆どは作業停止になるんじゃないかと思う。
でも実際にそうならないのは、良くも悪くも働いてる人の多くが肉体派の人達で、「3ヶ月休み無く働いてる俺すげー!」とか、筋肉の強さをアピールするような人が多いから問題にならないのだと思う。
インテリは彼らを見下すように”ブルー”とか言ったりするのだけれど、確かに、筋量によって上下を計る人が多いのは否めませんが、その人達が通る道を常に綺麗にしてる人は彼らで、長期ローンで建てる家を作るのも、その作業に対して文句を言わない人のおかげ。
ただ価値観の違いや得手不得手、育った環境によって、学業ではない道にいる所も大きいように思う。
正直、生きがいを感じない職について長期ローンなど組んでしまい、支払いに追われる人生になってしまうなら、”whiteでもblueでも”(くしくもそらいろ…)多少給料が良くても、たいして違いは無いように思う。
父もまた営業マンで、やはり30年以上ものローンを組んで地方に質素だが家を建てた。
病院で鬱と診断されても、その支払いがあるから、上司や得意先から人格さえ否定するようなどんな陰険なことをいわれ、それがまたノイローゼになろうと、やめる選択肢は無かった。
世間では「それでも頑張る父親」のような姿を偉いというでしょうが、何かがおかしい。
土木でもずっと続ければ、ローンを組めば家を建てることも、それなりの車など買う事も出来るでしょうが、でもそれで得る人生は、朝日が出る前に現場へ行き、昼は防音シートに囲まれ日は見えず、仕事が終われば夜。
明日への体力回復に寝るだけの日々で、まさに牢屋なんかに入ってるような、『ずっと囲まれた生活』といっても言い過ぎではない。
それでもいいと思えるなら、それがその人の価値観だからそれぞれだけど、少なくともわたしはそんな人生は真っ平だし、肉代労働だろうとデスクワークだろうと、安定給に安心材料どころか恐怖さえ覚えてしまう。
何が言いたいかというと、大起業でデスクワークだろうと土木だろうと、今ある環境に自分が納得してなければ、給料の高さとは関係なく不満な人生になるし、目先の給料だけを見て肉体労働をと考えるなら、それは多分うまくいかないと思う
肉体労働では幸せになれない本質的理由
ここからが今回の本題。
”なぜ、肉体労働では幸せになれないと思ったか(少なくとも私は)”の解説に入っていこうと思う。
労働収入は資本主義における重要な部分ではあるが、価値による収入(価値を産み出したり、既存の価値を更に高めたり)とは少し違う。
中でも肉体労働は、収入を上げる方法が体力の有無に偏ってしまう。
労働収入は「お金になる価値を作り出した人(要するに会社)」から作業の対価として払ってもらっており、作業自体が直接お金になるわけじゃない。
土木でいうなら、「コンクリートの穴あけの相場が1本いくら」とかあったりするのだけれど、それはその金額で交渉し成立したらの話であり、勝手に機械を持っていってどこかに穴を開けたってお金はもらえないのは当然。
それならば、「営業マンはお金を生み出している」という事でもなく、その営業マンもまた、結局その「交渉そのものをお金に変えた人(会社)」から支払われており、会社社長でさえ実際は会社からの給料で支払われていて、大きな企業になると社長も雇われていたりする。
でも、それだけ大手になると、さすがに社長も給料制といっても単位が全然違うだろうし、、という別の話になるから戻します。
やりがいも感じない仕事で働くのなら、最低限給料が良くないとやってられなくなる。
けれども、極端に労働収入に偏った肉体労働で給料を上げようとすると、かなり早い段階で限界が見えてくる。
「どうやったら利益になるか?」は簡単な話ではなく、フォードの創設者ヘンリーフォードも「考えるのが最も過酷な作業」といってるように、『どうやって利益を生み出すか?』を考えるのは非常に難しく、結果も簡単には出ない。
『学歴が無いなら肉体労働』と、安易な理由で親や親族から言われたわけだが、それは明らかな間違いがあり、誰しも好きな事を仕事に出来てるわけではないけれど、”学歴あれば好きな事が仕事に出来る”というわけでもないのは社会の成功者を見れば、はっきりしてる。
肉体労働で労働時間いっぱいいっぱいで働けば、表面上の給料が多少良く見えても、日々クタクタで、考える余裕もなく、次の目標の準備することさえできなくなる。
それでも社会がうまくいってる構図は、文句を言わない作業員(学力は低かったかもしれないが、知性がないのではなく、そこにアイデンティティを感じているから)が働き続けるところにあるように思う。
労働の対価で収入を増やそうとすると、単価が上がらなければ、労働時間を増やすしかなくなる。
けれど納期に追われるのが当然の仕事では、土木に限らず、すでに労働時間いっぱいいっぱいで殆どの人が働いてる。
例えばエリート大出た人が入社できるような大手なら、彼らは夕方5時には帰宅できるのかというと、そんな会社のほうが少ないと思う。
エリートだからこそ会社にとって重要な人材になり、重要な人材だから責任のある仕事が任せられる。
そんな重要な人材が、人より先になんて帰れるわけがない。
限りある時間の中で自分のためになることをこなさないと、いつまでも会社のための事だけで時間がなくなってしまう。
概ね大卒が給料がいいのは学歴によるものだけれど、みずからお金を生み出していなければ、仕事に好き嫌いが言えなくなるのには違いがない。
学生時代に学んだ知識によって、お金を生み出す人(会社)から給料を得る事はできる。ならそもそも”お金を生み出す人”は極端に頭のいい、一流大学卒なのかというと、そうとは限らない。
要するに自分の時間をうまく使い、ただの作業を価値に変えて、うまくお金に変換する事に成功した人たち。
作業をお金という対価で支払って貰うのだから、そもそも給料が上がらない。
でも自分で価値を作り出すのには相応の時間がかかる。
それがうまくいくかどうかの前に、体力的にも大変な仕事に就き、帰宅後よる9時すぎ、そこからさらに価値を作り出す作業にあてるのは現実的に難しい。
”ライフワーク”における、ライスワークとライクワーク
参照: 『時間という財産: Hidetaka Nagaoka at TEDxSaku』(YOUTUBE)
TED主催の番組内で(NPO法人侍学園スクオーラ・今人 理事長〈外部リンク〉)長岡秀貴さんは、これを「ライスワーク」と「ライクワーク」という言葉で説明しているのがわかりやすく参考になる。
この中で言われている事を要約すると、
「一日24時間から、8時間を勤労or勤勉にあて、6時間寝て、3時間食事などに当てても、残り7時間あるから、好きな事を仕事にしたかったらその残った時間をうまく使うこと」
と言ってあります。
要するに帰宅後残った時間で遊ぶか、もしかしたら収入になるかもしれない好きな事の準備に使うかという話なのだと思いますが、それが許された仕事はまだ幸福だと思う。
肉体労働はただ体力的な大変さだけでなく、労働者として働くだけで貰える給料の打ち止めが早く来てしまい、それならば「次に繋がる準備をする」なんて事が時間的にも体力的にもほぼ不可能なところにある。
それは肉体労働だけではないのだけれど、例えばネットさえ使えれば、ブログでもユーチューブでも今は家にいながら別に収入を得るチャンスがあって、家に帰りソファーに横になって番組でも見てるなら、まだ時間に余裕があって、ただやってないだけということになる。
当然それをみんながやらないといけないという事ではなく、今の現状に不満を抱きながらも帰宅後7時間あき時間があり、休日がきちんとあるなら、まだ時間に余裕があるということ。
けれども、少なくとも私の勤めた肉体労働では、「あの時間のどこにその隙間があるのか?」と思うものであったし、昇進試験もない肉体労働では、体格が良く、仕事がさばければ、そのうち月収50~60万になるかも知れないという感じ。(”そのうち”という表現に、語弊があるので言い換えます。定年までにうまく行けば月収50万位になる可能性がある。)
50万になれば幸せと言うわけでもないのに、そもそもそうなる保証もない。
仮定の50万は年収にすると600万で、現在の『サラリーマン平均年収:約400万』より高く見えるけど、税金を支払うとその差額は思ったより開きが無い。
税金は%(パーセント)で引かれるから、給料が高い方が多く引かれる結果になる。だから、実は年収1千万の家庭の方がきついという話もあったりする。
さらには、必死に働けば贅沢もしたくなり、その分”毎月の支払いが増えてしまう”という悪循環になったりする。
けれどもっと重要なのは「次につながる準備をする7時間」が肉体労働にはないところ。
だからどちらにしろ給料は問題ではなく、時間をかけて支払ってもらう給料という対価の先に見える人生が、*多少貯金できても、海外になんて行けないし、たいしてドライブする時間はないけどローンで買う車とか、休日だけ着るブランド物の服といった人生に*虚しさを感じてしまった。
*部分への言及:
出世して多少貯金出来ても、より仕事に責任が出てきてしまい、長期休日なんてとれず、結局生活に追われて、海外旅行に(というか自分が本当にやりたい事)なんてできなくなるというジレンマ。
もっと重要なのは、少なくとも私の父は、どうあれ一部上場企業の、晩年それなりのポストに就いていた(*恐らく「平取」≒地方担当の名ばかりの取締役)ので、それなりの給料はあったようだけれど、休日でも関係なく仕事先から電話がかかってきたらすぐに会社に行って対処しなければならず、有給だとかいうシステムは暗黙の了解で使えたものではなかったし、付き合いや接待を自腹で支払う事も多く、実際の収入は肩書ほど多いものでもなかった。
更には、世間的には立派だと言われても、その実、モラハラ・パワハラ同然で、病院で「鬱だ」と診断されても必死に頑張り出世した挙句、会社の負債の責任を(不当解雇同然で)退職金を没収され、ノイローゼが悪化して、若くして(40代後半)ガンを患い50代前半という若さで他界してしまったのだと思う。
あとがき
『日中、体力仕事で程々にいい汗かいて、それなりの給料貰い、小さいながらでも家を持ち、休日には息子のリトルリーグの応援に行く父』なんてのは映画の話で、想像を絶する過酷な重労働な上に、納期やらで労働時間なんてゆうに越え、休日もまともになく、ライスワークで日々が終わり、時間が無いから人生をよりよくするチャンスさえ見つけられない。
これが、私が働いた中で見た肉体労働の(というか社会の)真実だった。
だからこそ、本質的に人が、なぜ好きな事・得意な事(すなわち”やりがい”)をやるべきなのか?といった事を学べたいい機会だったように思います。
追記
この話は、決して”労働による収入が良くない”と言っているのではなくて、収入の多さだけをみて仕事を選んでしまうと、表面上の給料が多少良く見えても、自分の本当にやりたいと思う事から遠のいてしまう。
なので、自分らしく生きたいと望むなら、収入より”自分が本当にやりたい事”を見つける必要があり、それを叶える為の労働で心身衰弱するほどまでに辛いなら本末転倒だから、多少乱暴で無責任な表現になってしまうけれども”辞める方が幸せになる”かもしれないし、労働収入で多少でも幸せが叶っている(結婚とかも含め)のなら、それにこした事は無いのだと思う。
結局この問題は”別記『労働者を辞められない理由』”で触れた内容から一部抜粋すると、投資家ロバートキヨサキ著『金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドラント』でいわれている”福利か自由か”(超意訳)の問題であり、結局そのどちらをとるかは各人の問題で、安定した給料や病気の検査などを含む保障(すなわち福利)を取るか、自由を取るか、は自身で答えを出すしかないので、、
私は、
父のように必至に会社に尽くした挙句、負債まで負わされ、病気になってまで会社に尽くす義理はないという考えに至り、その為に、無駄遣いをやめて、倹約に努め、可能な限り貯金をして、安定収入や福利を切る事で”自由”を取ったということです。
追追記
このページには『きつい・つらい』といったワードでこられる方も多く、それに対する”解答”になるか分かりませんが、
過去に建材の運送や測量などもやった事もありますが、運送業は荷の積み下ろし以外は運転なので人間関係も少なく、測量は歩く量は多かったですが、重い機材もなく、同じ体力仕事でも、どちらも”アノ仕事”より遥かにラクだったのは間違いありません。
私自身、上述の理由で仕事を辞め、やりがいを求めてブログ運営(や投資で資産運用)を始めましたが、はっきり言うと、現状、労働収入のほうが遥かに高いので、下手な事を言うつもりはないですが、あまりにも仕事が辛いなら、私の父のように身体を壊しては元も子もないのも事実なので、実家があるなら戻るとか、無理のない仕事に転職したり、
そして、”早期リタイヤ”、今ではサイドFIREと言われたりしますが、(私の場合ドロップアウトという方が近いけど、、)それを目指すなら、まず、酒・たばこ・ギャンブルなど不必要な贅沢はやめて、借金(=ローン)があるなら真っ先に全て返済し、倹約に努め、少しずつでも貯金・資産運用するなどして、お金に束縛されない生活環境を作る準備をするしかないと思います。
(*それでも、上述したように私は結婚(に付随する恋愛などまで)諦めてるので、それでもいいと思えるかどうかだという事を誤解の無いように最後に付け加えておきます。)
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