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結論:学歴を逆手に取る経営者の行動原理。不平等な社会で『持たざる側』が損しない方法

「機会」は平等に与えられていない。

裕福な家庭に生まれた者が全員成功者となるわけではないが、潤沢な教育資金によって海外留学などの経験を積み、そこで得た知見や人脈を活かして起業したり「やりがい」を追求し、周囲からも尊敬され、恋愛や結婚をごく自然な幸福だと、その豊かな人生を謳歌する。

一方、自由に学ぶ機会も限られた家庭環境(実家が太くない)で、はるかに強い苦労(むしろ苦悩)を経験しても、社会が求める価値(経済効果・影響力)が低ければその努力は正当評価されず、恋愛や結婚といったごく普通の幸せ(平等な機会)を得るためには、やりがい・生きがいといった人生の本懐、つまり「本質的な生」を犠牲にしなければならないというジレンマに直面してしまう。

それは「持たざる側」には紛れもない事実だが、このままの意識では単なる「妬み嫉み」という感情に支配され続けてしまい、ますます「負のスパイラル」に陥ってしまう。

 

これまで「人生観」のページにて、長年勤めた会社から負債の責任を取らされた挙句、若くして他界した父の話*注1や、教育資金の乏しい家庭で中卒から新聞配達をしたり、果ては想像を絶するほど過酷なビル解体を経験*注2した中で感じた社会の矛盾・不平等について複数論じてきました。

その全ての総括として、オブラートに包むのはやめて、概ねこういった話題では高く評価されがちな高学歴者が出す『机上の解』ではない、『持たざる側』から見た資本主義の欺瞞と、結果的に『主体的に生きるにはどうすればいいのか?』の『解』を書き残そうと思う。

 

注1:「父の最期の言葉は「ありがとう」ではなく「ごめん」だった。正しく生きたはずの父の何が”間違い”だったのか」
注2:「肉体労働では幸せになれない本当の理由。経験者からみたブルーワーカーの真実。」

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最終章

私の両親はその時代にしても特に貧しい幼少時代を生きており、そこで培われた根性が良くも悪くも、どんなブラックだろうと必死に耐えるという資本主義にとって最も都合のいい「プロレタリア根性論(≒労働の美徳)」を叩き込まれてしまう。

それで報われるならまだしも、父は長年勤めた会社に負債の責任を負わされ、挙句の果てに大病を患い若くして亡くなってしまった。

そんな親を持つ私は、どうしても「社会が嘘をついてる」と感じてしまうのだけれど、投資家・経営者(優遇側)は、お金の為に働きたい人に”自分の資金から給料を出している”のは事実であり「そうなるまで頑張れ」と言われていないのは間違いがない。だから福利がある。

少なくとも社会はそういう体裁(建前)のもとで回ってる。

 

そして、社会は平等ではないのは事実なのだけれど、そもそもお金とは労働の対価ではなく「社会貢献の対価」であり、努力や苦労(苦悩)の対価ではない。

なので、彼ら(優遇側)が、C卒で新聞配達したりビル解体という過酷な労働を経験する事もなく、”普通に”留学して人脈や経験などの有利な条件を手に入れ、”普通に”人生を共にするパートナーを得られて当然の事だと幸福な人生を享受できるとしても、彼ら(優遇側)が評価されるのは「社会に役立っているから(与えているから)」という事実がある。

しかし「持たざる側」でも人並みに恋愛して結婚したいのなら、最初から得ることができる「労働」という一見平等に見える「機会」も与えられてるけれど、この「平等な機会(買う自由)」を得るためには、やりがい・生きがいといった、より「本質的な生」を犠牲にしなければならないという本末転倒な状況になってしまう。(私の父の件からも分かる通り)

 

つまり恋愛や結婚などといった幸福や贅沢を「誰もが自由に得られるという建前」こそが社会の欺瞞にもなっており、その実態は不平等な社会構造の上に成り立っている。

メディアの大半は「普通に消費する事」を、そのためには「普通に働く事」を肯定し、それが幸福への道だと錯覚させる。だからそれが普通なんだと、誰でも得ていいのだと勘違いして、ますます資本主義主導の消費社会に搾取されてしまう。

この指摘は、普通に努力をして普通を得られる人(つまり高校・大学を卒業し、恋愛してパートナーを見つけることができる人)には理解しがたい事だと思う。けれども私の家庭のように資本主義の建前と実態の乖離を目の当たりにした側にとって、これは切実な問題なのです。

なので、先に幸福(つまり恋愛したり結婚したり)を得るために働くのなら、それは各人の自由だけれども、自己の尊厳の為に生きるためには、彼ら「優遇側」が普通に得るそれらを絶ってでも、先に「原資」を得る必要があるという「解」に至った。

 

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一章:真実を突く哲学者と言葉巧みな経営者

多くの人は、哲学者の真実を突くキツイ言葉より、耳障りのいい言葉に耳を傾けてしまう。

古代ローマの哲学者セネカは著書『生の短さについて』の中で、「誰かに命令されたことを一生懸命やっている人生は、真に生きているとは言えない」(超訳)と表現していました。

これを現代社会に置き換えると、「やりがいを感じない仕事で、収入のために生きる人生は、真に生きているとは言えない」と解釈できる。しかしこう言われて、良い感情を抱く人は少ないでしょう。

 

ルキウス・アンナエウス・セネカ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

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一方、投資家のロバート・キヨサキは、著書『金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドラント』で、「人の行動原理は恐怖であり、その恐怖を和らげるために福利厚生を求めて働く人と、自由のために働く人がいる」(意訳)と述べていた。

これは、セネカの言葉と本質的に同じことを別の角度から指摘しているだけのように見える。

 

*つまり、キヨサキのいう恐怖(平易に言うなら病気になった時の不安など)に支配されてしまう事で、セネカの指摘する「主体的ではない生き方」の原因になってしまうという因果関係の指摘。

 

しかし、「あなたは福利のために、そのやりたくもない仕事をしているのでしょう?」と直接的に問えば、多くの人から反発を招くのは明白。

だから、経営者たちは「君のおかげで会社の売上が上がる」といった、耳障りの良い言葉に置き換える事で、労働者の意欲を引き出している。

けれども、これで”本当に得ている”のは経営者、及び、投資家であることは誰しもがわかる所。

この事実をキヨサキ氏も理解しているからこそ、著書で「本当に幸せになりたかったら、投資家(及び資産家)になるしかない」と、ストレートに表現している。

 

*ちなみにこのロバートキヨサキ氏は上記著書で「資本を得るまで9年間車で寝泊まりした」というようなことが書かれていた。

 

ロバート・トオル・キヨサキ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

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なれるかどうかは別として、投資家は「お金でお金の問題を解決」するから、人生の時間をやりたいことに自由に使う事ができる。(遊びでも労働でも)

しかし、福利厚生に生きる方法(つまり労働者)は、労働の対価としてお金を得るため、その仕事が好きかどうかなど関係なく働き続けなければならなくなる。

私の父のように真面目に会社に勤めた挙句、会社の損失の肩代わりさせられ、不当解雇で退職金も没収され、、挙句、若くしてガンで亡くなるような事になるとしても、途中で辞めるという選択肢は事実上なくなる。これが”普通程度の家庭”に生まれた殆どの人の生き方になってしまう。

 

もちろん、その生き方にも福利がある。

しかし、そこで得られる福利は、失業した際に、(『定年まで生涯仕事に行く』という契約のもとで受け取れる)”失業手当”や、働き続ける限りにおいて”病気の検査”が受けられることであり、そもそも人生半ばで病気にならない保障もなければ、良き伴侶に出会える保障もなく、仮に無事定年を迎えられても保障されるのは最低限の生活であり、”幸せそのもの”というわけではない。

 

ニーチェは著書『この人を見よ』で、「澄んだ空気と綺麗な水がある地域(ヴェネツィア?)に住むべき」(意訳)と言っていたのは、まさにその(心身ともに健やかな状態を確保する土台)の重要性を説いたものだと思う。

 

 

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更には、年金やその他充実した福利厚生(社会システム)に頼れば頼るほど*税金や社会保険料は上昇していき、結果として長い年月をかけて多少給料が上がっても、物価なども共に上ってしまい、一向に生活が良くならないのはそれに依存するからという矛盾を産んでしまう。少子化の上、景気も良くないのに、物価だけは上がっていくのだから)

要するに、資本主義の基本的な構造としてインフレに向かうように設計されてるので、時間経過による給料アップはインフレにより相殺されてしまう。

 

だからインフレによる影響をもろに受ける変動資産《要するにお金》を抑えるために、固定資産・安定資産に投資し保有する必要がある。実際、多くの資本家(お金持ち)が絶対に投資をしてる理由はこれなんだと思う。

 

なので、労働者でも順風満帆に人生を送れればいいが、「労働だから正しい」と選んでしまった場合、私の父のように人生半ばで”末期ガン宣告”のような、想定外の悪い事が起きたら「そんなはずじゃなかった」と後悔に繋がっていくのは間違いない。

結局それは、生きる上で「自由の為に生きるのと、福利厚生に生きるのはどちらが良いか?」という問題に対して、明らかに「自由の為に生きる(自由を得る為方が良い」と導き出せる(多くの哲学者が認める)のだが、上述ロバート・キヨサキが言うように、将来に対しての漠然とした恐怖感により「労働(人の会社で働く)しかない」という選択に偏ってしまう。

それを資本を持っている経営者たちは、福利厚生を得たい人たち(要するに労働者)を給料で雇うという資本主義で認められた”合法な”方法を用いて自身の幸福を確保している。

一応語弊の無いように補足しておくと、起業家・経営者が全員悪質だと言ってるわけではないが、仮にその起業家が「社会の課題を解決したい」「新しい価値を創造したい」といった強い使命感を持って事業を立ち上げていたとしても、そこで雇われるのは(資本を)持たざる家庭の労働者だという事実がある。

そして、その事実を多くの「見識者・哲学者」たちが*批判するのだけれど、実際に労働者に給料を出しているのは投資家・経営者だという事実があるので、彼らを「悪質だ」というには矛盾が生じてしまう。

*マルクス資本論でいう所の「労働疎外」がまさにこれに当たる。

 

福利厚生に生きた結果

セネカの指摘した「自主的でない生き方は真に生きてはいない」といった厳しい表現は、当人が「それで良い」と思ってやっているのだから、殆どの人が「余計なお世話」と感じるかもしれない。

しかし一方で、多くの末期ガン患者を看取ってきた医者が、「彼らの最期に言う言葉の多くが『もっと自分らしく生きればよかった』だ」(ソースは忘れました)と語っていたという話は、この言葉の真実性を裏付けているように思える。

典型的な高度経済成長時代の会社人間だった私の父も、ガンの闘病中に日記をつけてましたが、その内容はシンプルに「もっと生きたい」という人生への深い後悔でした。

生前の父は、特別良い父と言うわけでもないですが、仕事は生真面目に取り組むタイプで、一部上場企業で晩年それなりの役職(恐らく「平取」)にまで出世しており、父のお葬式に役所の”お偉いさん”なども参列していました。

 

補足:上記の”お偉いさん”は父の葬式に参列していたにもかかわらず、次の年、父の名で選挙活動の手紙を送ってきていた。肩書きなんて所詮そんなもの

 

亡くなった後にどれだけ「いい人だった」と言われようが、病気から助けてくれるわけではなく、もっと言うならば、どれだけ粗暴で口が悪かろうとも、病気を治してくれる人の方が有益で価値のある人。

ただ、世界はマンガでないので、当然そんな人はいない。というより、そんな人が存在しない真実の世界だからこそ、現状を戒めるきつい言葉を”先にかけてくれる哲学者”こそ本来価値のある人のように思える。

その価値に気づかないと、彼ら(資本家)の評価のためにずっと競争させられ続け、やりがいなどなく、福利(幸福)の為のはずなのに、義務感で出世する(=生きる)事になってしまう。

結局、私の父もまた、ロバートキヨサキの言う、「福利厚生の為に働く人」であり、セネカのいう”生きてない人”だったという事。それを末期宣告を受けた後に理解しても「後の祭り」になってしまう。(どれだけ悔しかろうとも)

なので、もし”仕事が好きではない(本当に嫌だ)”とまで思うのならば、”福利”が成立しておらず、『福利を与える経営者側』か『「この会社で働きたい」といった労働者側』のどちらか(もしくはどちらとも)が嘘をついてるという構造的なジレンマが生じてしまう。

 

 

二章:「社会欺瞞の正体」哲学者も経営者も同じことを言っている

実のところ哲学者と経営者(及び投資家)は、人間の行動原理について同じことを理解しながら、真逆の方向でそれを実践しているだけのように見える。

経営者は、『今月の売り上げ』というノルマを与え、達成による一時の高揚感と”金一封”という報酬を与えている。

それで喜んでいるのは、紛れもなく貰う側の自分自身(労働者側)であり、その金一封で欲しいものを得るのもまた自分自身(労働者側)だ。

つまり、労働者は生涯にわたって「与えられる側」として生活するのだが、そもそもそれを投資家や経営者が頼んだわけではなく、どうあれ自分自身で選んだことになる。

そこで得られるのは一定の給料や休日、保険などであり、それがまさに”福利”となっている。

 

幸福と利益。希望どおりになって生活などが落ち着くようにすることと、その人のためになること。

引用:コトバンク

 

しかし、この生き方を「鳥篭の鳥」で例えるなら、一番きれいに囀(さえず)れば丁重に扱われ、より多くの餌を与えてもらえるが、それはまさに運と競争の世界であり、囀れなくなれば価値もなくなり見捨てられてしまう。(事実、定年後に再雇用等でそのまま同じ内容で働き続けても、給料は下げられる。)

なので、生まれ持つ容姿や才能、実家の太さ、労働力で勝ちうる体格などの「運」に恵まれなかった場合、それ(労働そのもの)に生きがいを感じないのならば、給料や役職に生きても、将来幸福に感じるかは保証されているわけではなく、各人の問題になる。

投資家たちが『福利厚生の為に生きなさい』と言ったわけではなく、自分自身が『福利厚生に生きよう』と選択したという事実。そして、その福利(要するに給料)を実際に与えているのは資本家・投資家(経営者)であるという事実。

しかし、一般労働階級の家(つまりプロレタリア)に生まれた多くの人は、既存の学校教育の中で「食べるため(生きるため)に”人の会社で働く道”」しか無いかのように仕向けられてるので、その真偽を自ら疑わなければ、そこから抜け出すのは極めて困難になってしまう。

哲学者はその構造的な問題を指摘するが、投資家・経営者たちは「(面接等で)あなたが働きたいんでしょう?」と、”お給料で雇う”という(合法的な)結論を導き出している。

つまり、経営者たちが使う『君のおかげで社が潤う』等の言葉は、哲学者の『その生き方は愚か』と同じことを真逆に利用しているだけであり、彼ら経営者たちは労働の先に幸福までを約束しているわけではない。

だから、哲学者たちの言葉こそ聞くべきだと感じるけれど、大衆自らが雇われたい・出世したい、つまり「もっと給料が欲しい」と言っているのも事実であり、実際に福利(給料)を与えている経営者・投資家たちは労働者のその願いに応えており、それを選んだのは自分自身だという事になってしまう。

恐らくこれが、社会の煙に巻かれたように感じる欺瞞の正体なのではないかと思える。

 

三章:欲すればまず…

これは、”え”的なものではなく、結果論として「欲すれば与えるしかない」という事実を知る必要がある。

多くの人は、得た給料を個人的な趣味や贅沢に使っている。当然それは個々の自由であり全く悪い事じゃない。

けれども、結果論として経済的成功者(経営者・投資家)は、そのお金を自分の物欲などの贅沢にではなく、人に与える事で労働者より得る事に成功している。という事実がある。

つまり、”給料を貰う人(労働者)”より、”給料をあげる人(経営者&投資家)”の方が成功者になっているという事実をまず知らなければ、いつまでも”貰う側”から抜け出せなくなる。

とはいえ、一概に労働をダメだと言ってるわけではなく、個々の得手不得手や幸福の形に依存するので、(普通とされる)人生の中で良きパートナーと出会い「平凡という最高」が得られるのならば、福利に生きる人生にも幸福はある。

それに、給料に関しても、(力でも知識でも)労働力があれば、元グーグル社員のように労働者として退職金9000万ドル(約100億円以上)という”最大限の福利”もありえる。

ただ、報酬という点だけを見ると、起業で発揮したジョブスは200億ドル(約2兆円以上)もの資産を残し、投資という方法で社会イノベーションに寄与したバフェットは約100兆円というケタ違いな資産を得ている。

しかし最も重要なのは、それら全てはお金の価値ではなく(その時代の経済効果の影響を受けるという前提で)社会貢献の価値(地位=ステータス)が金額として表れているだけであり、彼らは全て自らの力(や資金)を人に与えて成功しているという事実を見落としてはいけない。

だからこそ、”持たざる側”であるなら、まず先に自分が得ようと思うのではなく、”欲すればこそ与える”しかない。という事。

 

補足:昨今の副業ブームの煽りもあり、特に経営ノウハウなど学ぶ機会もない一般家庭の人がビジネス(特に昨今の某チューバー等のネットビジネス)を始めてもうまくいかないのは”好きでも得意でもないのに、お金目当てで始めるから”ではないかと思う。

 

好きな事を仕事にする人

スティーブ・ジョブスをはじめ、多くの成功者が口にすることだが、世界屈指の経済的成功者たちも「好きな事を仕事に」と言ってるのだから、経済的成功者はウソをついているのではなく、すなわちこれは、”自身で判断したもの”と言わざるを得ず、「好きでもない仕事でもどうしてもやらなければならない理由」は福利を対価とした先に束縛されるもののように思う。

それに、社会では(特に学校では)不向きな事を頑張ることを美徳としている風潮があるが、それが真理ならば、『碁打ちは野球を、野球選手は囲碁をやるべきだ』という理屈が通ってしまう。

しかしながら、それは考えずとも分かるとおり、”明らかにムダ”であり、やはり自分の中で一番得意な事・好きな事(人と比べてではなく)のほうが、自分のためにも社会全般のためにも大きな成果が出るのは間違いない。(自問自答:多分これは「功利主義」的考えなのかもしれない。)

なので『好きな事をする』は絶対に必要な部分であり、ただしそれは「利己的な好き放題」ではなく、「社会に良い価値を与える事が大前提」だという事は忘れてはいけない。

 

四章:「買う自由」と「買わない自由」

前述の通り、評価されるには「与えるしかない」のだが、しかし「持たざる側なのに、どうやってその資金を捻出したらいいのか?」という矛盾が生じてしまう。

その方法は単純で、出来る限り贅沢を慎むだけ。なのだが、資本主義の構造上、生産と消費の循環によって成り立っているため、消費を肯定する仕組みになっており、SNSやYouTubeなど、何を見ても物欲が刺激されてしまい、その感情から抜け出すのが難しくなる。

ただしこれは、資本主義社会が直接欺瞞(詐欺)を働いているわけではなく、個人の選択になっている。

消費者には「買う自由」「買わない自由」を同等に与えられているのだが、資本主義の構造上「買わない」という選択の先に幸福があるようなマーケティングが存在しないので、インフルエンサーなどの優雅な生活(見せかけ)に感化されると、ずっと消費し続ける事になり、より多くの収入が必要となり、ますます労働から抜け出せなくなる。

これが資本主義社会にとっても好都合で、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』で描かれていた全体主義国家のような直接的な思想統制の必要はなく、自らの自由選択という体裁を取りながら、実際には資本主義の巧妙な仕掛けによって、個人の欲望が際限なく刺激され、自発的にシステムに組み込まれていく。

『買わない自由』は存在するのだが、マーケティングは常に新しい商品、より大きな欲望の充足、他人からの羨望の眼差し(つまり「見栄」)こそが幸福への道だと喧伝する。資本主義はその「欠乏感」を埋めるためには消費が必要だと刷り込み、近所が普通に持ってる”それ”を得なければ負け組だと感じてしまい、「貯金ゼロにもかかわらず贅沢品に囲まれた生活」に陥ってしまう。

この「経済」にとって最も好ましい状態を資本主義は肯定し、労働者はより消費する為に、より長く働くことを「労働の美徳」と教え込まれる。その画一的な価値観によって、多様性は抑圧され、それを共通規範だと内面化し、自らの意思で巨大な経済の歯車を回し続けるギアに組み込まれていく。

 

これは消費全てを否定しているのではなく、誰かには買ってもらわないと経済が回らなくなるので、親の初期資産や人脈などの偶然の因子によって先に高い報酬を得る事ができる人に使ってもらえばいい。彼らが使えば使うほど、そこから(高い)税金も徴収され、ライフラインも充実するのだから。

 

だから、自分(持たざる側)にとってそれが本当に必要かを選択する自由(買わない自由)が資本主義(民主主義)には用意されているという事実を知る事が重要であり、そして、たとえ「持たざる側」だったとしても、不要な贅沢を慎むことで他者に与えるための「原資」の準備も可能になるはずだ。(極限の貧困家庭でなく、少なくとも健康体で外食できる程度の余裕があるならば。)

 

五章『解』:不平等な社会を「持たざる側」はどう生きるか

上述を踏まえて、少なくとも私が辿りついた「解」は、、、

一般労働者の家庭に生まれると”より稼ぎがたい”のは、”真面目さ・(学歴的)賢さ”から来るものではなく、「資金がそもそも無い」という現実問題も大きくあるけれど、お金がないことへの不安から、短期的な利益を優先してしまい、短期的な利益を追求するほど「価値提供」から離れてしまい、人に(特にタダでは)与えたくないのに自分だけは欲するから、より負のスパイラルに陥ってしまっているように思う。

労働が報われないかどうかは、福利が叶ってるかどうかであり、即ち、必ずしも労働だと報われないわけではなく、福利を取るか自由を取るかは各人の問題になる。

とはいえ、これに漬け込んで、労働者に無理を押し付けてる企業が多くあるのも事実なのだけれど、雇われた側が、貰った給料で私欲を叶えている(恋人とデートしたり、結婚したり、ローンで高価な物を購入したり)という事実がある。

なので得た給料で贅沢をしているにもかかわらず、幸せに感じないのなら、”物質主義”に陥ってしまっている。

 

冒頭にも述べたように「機会は平等に与えられていない」これは絶対的な事実。自由に学ぶことも難しい「持たざる側」がC卒後に新聞配達とコンビニを掛け持ちし、ブルーの中でも最もハードと言われるビル解体(イカツクはない)まで経験して自力で10段登るより、散々親のスネ(資金)で高校、大学、果てはぬくぬく留学までさせてもらって30段登った「優遇された人」の方が評価されるのは、より高い価値を社会に与えているという事実が評価されるのが現実世界のルールになっているから。

だからその社会の不平等に対して、ただ被害者意識を持つのではなく、資本主義の仕組みを客観的に見抜く必要があり、主体的に生きたいと望むのならまず不要な贅沢を慎み「買わない自由」を行使して出来る限り多くの「原資」を得て、人に「与える側」に回るしかない。

 

誤解の無いように言っておくと、「与える」とは起業や投資に限定してるわけではなく、他者に対して「価値を与える」という事。

とはいえ持たざる側だからこそ投資には大きなメリットがある。それは、持たざる側でも”優遇された人”に資金を投じる(与える側に回る)ことで、自身の家庭では不可能だった高い社会貢献・イノベーション活動の一旦を担う事ができ、その対価として「利益」という形で正当評価を得る事ができるようになるからだ。

更にはこれは経済的な価値だけでなく、精神的な障壁の克服にも高い価値を持っている。つまり彼らが「そもそも優遇された環境ありきで活動できている」のだとしても、優遇者たちも結果的に「優遇された者の中での競争」があり、彼らが行う活動のリスクや努力の先に生み出される価値(経済効果)が高ければ高いほど、こちらにとっても(社会にとっても)有益になるのだから感謝に値すると知る事になり、その結果、優遇されている彼らに対して嫉妬心や劣等感などを抱かなくなる。

これは開き直りではなく端的に言うと、わざわざ不利な状況を背負って自らバッターボックスに立つより、自分より確実にホームランを打つ人に任せた方が効果(価値)が高いという事。なぜならそこには「優遇された者」の中でも競争のすえ勝ち残った「更に優れた者」が立ってくれるのだから。

こう理解すると自身が「(社会が求める)優秀≒ヒーロー」である必要はないという事実もおのずと理解できるようになる。(経営者や投資家に「資格」が不要という事実。だからこそ嫉妬心などは完全に消えてなくなる。)

 

もう一つ出るであろう誤解を解くために解説しておくと、「まず与える」というのは綺麗事ではなく、投資に対しても多くの人は自身が儲かる為の行為だと思われてる節があるが、実際には企業(投資先)が儲かる為の仕組みであり、自分が儲かる為の仕組みではない。なので投資もまた社会貢献(愛)であり、これは事実論的にみても経済成功者の行動原理でもある。

これが投資の真理であり「投資家は労働せずに稼ぐのはズルい」といった感情も、その投資の本質的な認識の誤りから発生してるのだと思う。

当然これで誰しも利益が上げられるというわけではないが、とはいえそもそもルールを間違っていては「同じ土俵」にさえ立てないのはどの分野でも明らかであり、このルール認識の重要性を、上述したロバート・キヨサキ著書*『キャッシュフロー・クワドラント』における左側(労働者/個人事業主)が右側(ビジネスオーナー/投資家)になる際の障壁として解説していたのだと思う。

 

*「労働者が投資家になるのは職業を変えるのではなく価値観そのものを変える必要がある」というような感じで説明されていた。

 

少し話がそれたが、これは投資を斡旋してるわけではなく、つまりお金の本質(ルール)とは「労働の対価」ではなく「社会貢献の対価」であり、それは自らの「労働力(時間・知識・スキル・容姿etcetc)」からでも「資金」からでもどちらでもいいというのが資本主義社会になっている。

だから、持たざる側でも「労働(による福利)」で幸福が得られれば何よりなのだけれど、そうでない場合、(社会一般が認める)ちゃんと働いてるにもかかわらず報われない感覚が「労働疎外」の原因になっており、その「虚しさや欠乏感」を埋めるために一時的な満足感を得られる消費に走ってしまい、自発的に消費社会に組み込まれて、より搾取されてしまうという負のスパイラルに陥ってしまう。

 

なので「持たざる側」が本質的な幸福を得るためには、労働の質を「生活の為(お金の為)」から「自己の尊厳の為」へとシフトさせる事が重要で、これによってマルクスの指摘した「労働疎外」も解消できるようになる。その為にはまず「買わない自由」を行使し、原資を得て、他者に価値を与える側に回る事で報酬を得る。それがセネカの言う「真に生きる生き方」であり、無い側でも主体的に生きるための「鍵」になるのだと思う。

 

あとがき

この話は実践的ハウツーではなく、(私自身が至った)意識の転換を主にしてるので、恐らく「結局どうしたらいいのか?」と思う人もいると思います。

ですが、その疑問に対しての解決策を安易に提示すると、「副業で簡単に月10万」などという触れ込みの「商品」と化してしまい、結局は資本主義主導の競争と、人の不安につけ込む消費サイクルに取り込まれてしまうというジレンマが生じてしまいます。

だからこそ、その構造的欠陥から抜け出すには、まず「原資」を得なければならないのだけれども、その過程で「自己の尊厳」を失ってしまっては本末転倒になってしまいます。(不当解雇のすえ病に倒れた私の父のように…)

なので、別記した「ブルーワーカーの真実」のあとがきでも同様の事を書いてるので一部重複してしまいますが、「資本主義にとって都合のいい『普通』に付き合う義理は無い」という解に至り、その為に、結婚や恋愛さえも諦め、XX年間、可能な限りの贅沢を慎んで、主体的に生きるための(なけなしの)原資を作ることにしました。

というと一見「サイドFIRE」な話にも聞こえてしまうので誤解を解いておくと、むしろ金銭的には全く裕福では無く、なので当然結婚などもできるはずも無いので(超運よく家庭が持てるほどの資産を得られれば別ですが…)、はっきり言ってこれは人に進められる方法ではないと自覚しています。

なので、この話は「成功方法」などではなく、私が個人的に選んだ、本質的な多様性の中で認められるべき『生き方の選択』の一つだと受け止めてもらえれば幸いです。

 

編集歴:201128 201215 201224 210313 210124 210609 210718 211030 220413 220727 230130 2401 2405 2410 2412 2501 2505 2508再構成 2509添削微調整 2510表現微修正 最終版:2511あとがき追加 全ての編集において大きな内容の変更は伴わない。

これらの手記は中卒→土木(全くイカツクない)という家庭環境から『主体的に生きるにはどうすればいいか』という主観的な「解」です。既存の社会で評価されてる人・満足だという人々に対しての否定などでは一切なく、お役にも立たないと思うのでご了承ください。

 

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