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最終章:平等ではない社会で『持たざる側』がどう思考しどう行動するべきか

機会は平等に与えられていない。裕福な家庭に生まれた者が全員成功者となるわけではないが、とはいえ潤沢な教育資金によって海外留学などの経験を積み、そこで得た知見や人脈を活かして起業し、周囲からも尊敬され幸福な人生を歩む。

一方で、実家が太くない(十分な教育資金も無い)家庭環境で、彼らよりはるかに多くの努力と苦労(苦悩)があったとしても、社会が求める価値(経済効果・影響力)が低ければその努力は正当に評価されず不幸が連鎖する。

 

これまで『人生(カテゴリー)』の中で、私が実際に経験して感じた社会の矛盾・欺瞞をいろんな角度から論じてきたわけだけれども、その全ページの現時点での「集大成」として、不平等な社会で『持たざる側』がより主体的に生きるための「解」を導き出したいと思う。

 

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真実を突く哲学者と、言葉巧みな経営者

この話を進めるにあたり、哲学者と経営者の思考の違い、そして労働者の行動原理を知る事が重要になってくるので、まずはこの三者の視点を比較・考察していきます。

~~~~~

 

多くの人は、哲学者の真実を突いたキツイ言葉より、耳障りのいい言葉に耳を傾けてしまう。

 

古代ローマの哲学者セネカは著書『生の短さについて』の中で、「誰かに命令されたことを一生懸命やっている人生は、真に生きているとは言えない」(超訳)と表現していました。

これを現代社会に置き換えると、「やりがいを感じない仕事で、収入のために生きる人生は、真に生きているとは言えない」と解釈できる。しかしこう言われて、良い感情を抱く人は少ないでしょう。

 

ルキウス・アンナエウス・セネカ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

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一方、投資家のロバート・キヨサキは、著書『金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドラント』で、「人の行動原理は恐怖であり、その恐怖を和らげるために福利厚生を求めて働く人と、自由のために働く人がいる」(意訳)と述べていた。

 

これは、セネカの言葉と本質的に同じことを別の角度から指摘しているだけのように見える。

 

*つまり、キヨサキのいう恐怖(平易に言うなら病気になった時の不安など)に支配されてしまう事で、セネカの指摘する「主体的ではない生き方」の原因になってしまうという因果関係の指摘。

 

 

しかし、「あなたは福利のために、そのやりたくもない仕事をしているのでしょう?」と直接的に問えば、多くの人から反発を招くのは明白。

だから、経営者たちは「君のおかげで会社の売上が上がる」といった、耳障りの良い言葉に置き換える事で、労働者の意欲を引き出している。

 

けれども、これで”本当に得ている”のは経営者、及び、投資家であることは誰しもがわかる所。

 

この事実をキヨサキ氏も理解しているからこそ、著書で「本当に幸せになりたかったら、投資家(及び資産家)になるしかない」と、ストレートに表現している。

 

*ちなみにこのロバートキヨサキ氏は上記著書で「資本を得るまで9年間車で寝泊まりした」というようなことが書かれていた。

 

ロバート・トオル・キヨサキ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

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なれるかどうかは別として、投資家は「お金でお金の問題を解決」するから、人生の時間をやりたいことに自由に使う事ができる。(遊びでも労働でも)

 

しかし、福利厚生に生きる方法(つまり労働者)は、労働の対価としてお金を得るため、その仕事が好きかどうかなど関係なく働き続けなければならなくなる。

 

私の父のように真面目に会社に勤めた挙句、会社の損失の肩代わりさせられ、不当解雇で退職金も没収され、、挙句、若くしてガンで亡くなるような事になるとしても、途中で辞めるという選択肢は事実上なくなる。これが”普通程度の家庭”に生まれた殆どの人の生き方になってしまう。

 

もちろん、その生き方にも福利がある。

しかし、そこで得られる福利は、失業した際に、(『定年まで生涯仕事に行く』という契約のもとで受け取れる)”失業手当”や、働き続ける限りにおいて”病気の検査”が受けられることであり、そもそも人生半ばで病気にならない保障もなければ、良き伴侶に出会える保障もなく、仮に無事定年を迎えられても保障されるのは最低限の生活であり、”幸せそのもの”というわけではない。

 

なので、そもそも病気にならないために、生活に適した場所を選ぶ必要があり、その事をニーチェは著書『この人を見よ』で、「澄んだ空気と綺麗な水がある地域(ヴェネツィア?)がいい」(意訳)といっていたのは、その重要性を説いたものだと思う。

 

 

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更には、年金やその他充実した福利厚生(社会システム)に頼れば頼るほど*税金や社会保険料は上昇していき、結果として長い年月をかけて多少給料が上がっても、物価なども共に上ってしまい、一向に生活が良くならないのはそれに依存するからという矛盾を産んでしまう。少子化の上、景気も良くないのに、物価だけは上がっていくのだから)

 

要するに、資本主義の基本的な構造としてインフレに向かうように設計されてるので、時間経過による給料アップはインフレにより相殺されてしまう。

 

だからインフレによる影響をもろに受ける変動資産《要するにお金》を抑えるために、固定資産・安定資産に投資し保有する必要がある。事実、多くの資本家(お金持ち)が絶対に投資をしてる理由はこれなんだと思う。

 

なので、労働者でも順風満帆に人生を送れればいいが、「労働だから正しい」と選んでしまった場合、私の父のように人生半ばで”末期ガン宣告”のような、想定外の悪い事が起きたら「そんなはずじゃなかった」と後悔に繋がっていくのは間違いない。

 

結局それは、生きる上でーー自由の為に生きるのと、福利厚生に生きるのはどちらが良いか?ーーという問題に対して、明らかに「自由の為に生きる(自由を得る為方が良い」と導き出せる(多くの哲学者が認める)のだが、、、

上述ロバート・キヨサキが言うように、将来に対しての漠然とした恐怖感により「労働(人の会社で働く)しかない」という選択に偏ってしまう。

 

それを資本を持っている経営者たちは、福利厚生を得たい人たち(要するに労働者)を給料で雇うという資本主義で認められた”合法な”方法を用いて自身の幸福を確保している。

 

一応語弊の無いように補足しておくと、起業家・経営者が全員悪質だと言ってるわけではないが、仮にその起業家が「社会の課題を解決したい」「新しい価値を創造したい」といった強い使命感を持って事業を立ち上げていたとしても、そこで雇われるのは(資本を)持たざる家庭の労働者だという事実がある。

 

そして、ーー*その事実を多くの見識者・哲学者たちが批判するーーのだけれど、実際に労働者に給料を出しているのは投資家・経営者だという事実があるので、彼らを「悪質だ」というには矛盾が生じてしまう。ーー*マルクス資本論でいう所の「労働疎外」がまさにこれに当たる。ーー

 

福利厚生に生きた結果

セネカの指摘した「(自主的でない生き方は)真に生きてはいない」といった厳しい表現は、当人が「それで良い」と思ってやっているのだから、殆どの人が「余計なお世話」と感じるかもしれない。

しかし一方で、多くの末期ガン患者を看取ってきた医者が、「彼らの最期に言う言葉の多くが『もっと自分らしく生きればよかった』だ」(ソースは忘れました)と語っていたという話は、この言葉の真実性を裏付けているように思える。

 

典型的な高度経済成長時代の会社人間だった私の父も、ガンの闘病中に日記をつけてましたが、その内容はシンプルに「もっと生きたい」という人生への深い後悔でした。

 

生前の父は、特別良い父と言うわけでもないですが、仕事は生真面目に取り組むタイプで、一部上場企業で晩年それなりの役職(恐らく「平取」)にまで出世しており、父のお葬式に役所の”お偉いさん”なども参列していました。

 

補足:上記の”お偉いさん”は父の葬式に参列していたにもかかわらず、次の年、父の名で選挙活動の手紙を送ってきていた。肩書きなんて所詮そんなもの

 

 

死後にどれだけ「いい人だった」と言われようが、病気から助けてくれるわけではなく、もっと言うならば、どれだけ粗暴で口が悪かろうとも、病気を治してくれる人の方が有益で価値のある人。

ただ、世界はマンガでないので、当然そんな人はいない。というより、そんな人が存在しない真実の世界だからこそ、現状を戒めるきつい言葉を”先にかけてくれる哲学者”こそ本来価値のある人のように思える。

 

その価値に気づかないと、彼ら(資本家)の評価のためにずっと競争させられ続け、やりがいなどなく、福利(幸福)の為のはずなのに、義務感で出世する(=生きる)事になってしまう。

 

結局、私の父もまた、ロバートキヨサキの言う、「福利厚生の為に働く人」であり、セネカのいう”生きてない人”だったという事。

それをガン末期宣告を受けた後に理解しても「後の祭り」になってしまう。(どれだけ悔しかろうとも)

 

なので、もし”仕事が好きではない(本当に嫌だ)”とまで思うのならば、”福利”が成立しておらず、『福利を与える経営者側』か『「この会社で働きたい」といった労働者側』のどちらか(もしくはどちらとも)が嘘をついてる事になる。

 

社会欺瞞の正体:哲学者も経営者も同じことを言っている

実のところ哲学者と経営者(及び投資家)は、人間の行動原理について同じことを理解しながら、真逆の方向でそれを実践しているだけのように見える。

 

経営者は、『今月の売り上げ』というノルマを与え、達成による一時の高揚感と”金一封”という報酬を与えている。

それで喜んでいるのは、紛れもなく貰う側の自分自身(労働者側)であり、その金一封で欲しいものを得るのもまた自分自身(労働者側)だ。

 

つまり、労働者は生涯にわたって「与えられる側」として生活するのだが、そもそもそれを投資家や経営者が頼んだわけではなく、どうあれ自分自身で選んだことになる。

 

そこで得られるのは一定の給料や休日、保険などであり、それがまさに”福利”となっている。

 

幸福と利益。希望どおりになって生活などが落ち着くようにすることと、その人のためになること。

引用:コトバンク

 

しかし、この生き方を「鳥篭の鳥」で例えるなら、一番きれいに囀(さえず)れば丁重に扱われ、より多くの餌を与えてもらえるが、それはまさに運と競争の世界であり、囀れなくなれば価値もなくなり見捨てられてしまう。(事実、定年後に再雇用等でそのまま働き続けても、給料は下げられたりする。)

 

なので、生まれ持つ容姿や才能、実家の太さ、労働力で勝ちうる体格などの「運」に恵まれなかった場合、それ(労働そのもの)に生きがいを感じないのならば、給料や役職に生きても、将来幸福に感じるかは保証されているわけではなく、各人の問題になる。

 

投資家たちが『福利厚生の為に生きなさい』と言ったわけではなく、自分自身が『福利厚生に生きよう』と選択したという事実。そして、その福利(要するに給料)を実際に与えているのは資本家・投資家(経営者)であるという事実。

 

しかし、一般労働階級の家(つまりプロレタリア)に生まれた多くの人は、既存の学校教育の中で「食べるため(生きるため)に”人の会社で働く道”」しか示されていないので、その真偽を自ら疑わなければ、そこから抜け出すのは極めて困難になってしまう。

 

哲学者はその構造的な問題を指摘するが、投資家・経営者たちは「(面接等で)あなたが働きたいんでしょう?」と、”お給料で雇う”という(合法的な)結論を導き出している。

 

つまり、経営者たちが使う『君のおかげで社が潤う』等の言葉は、哲学者の『その生き方は愚か』と同じことを真逆に利用しているだけであり、彼ら経営者たちは労働の先に幸福までを約束しているわけではない。

 

だから、哲学者たちの言葉こそ聞くべきだと感じるけれど、大衆自らが”雇われたい・出世したい(つまり「もっと給料が欲しい」)”と言っているのも事実であり、実際に福利(給料)を与えている経営者・投資家たちは労働者のその願いに応えており、それを選んだのは自分自身だという事になってしまう。

 

恐らくこれが、社会の煙に巻かれたように感じる欺瞞の正体なのではないかと思う。

 

欲すればまず…

これは、”え”的なものではなく、結果論として「欲すれば与えるしかない」という事実を知る必要がある。

 

多くの人は、得た給料を個人的な趣味や贅沢に使っている。当然それは個々の自由であり全く悪い事じゃない。

 

けれども、結果論として経済的成功者(経営者・投資家)は、そのお金を自分の物欲などの贅沢にではなく、人に与える事で労働者より得る事に成功している。という事実がある。

 

つまり、”給料を貰う人(労働者)”より、”給料をあげる人(経営者&投資家)”の方が成功者になっているという事実をまず知らなければ、いつまでも”貰う側”から抜け出せなくなる。

 

とはいえ、一概に労働をダメだと言ってるわけではなく、個々の得手不得手や幸福の形に依存するので、(普通とされる)人生の中で良きパートナーと出会い「平凡という最高」が得られるのならば、福利に生きる人生にも幸福はある。

 

それに、給料に関しても、(力でも知識でも)労働力があれば、元グーグル社員のように労働者として退職金9000万ドル(約100億円以上)という”最大限の福利”もありえる。

 

ただ、報酬という点だけを見ると、起業で発揮したジョブスは200億ドル(約2兆円以上)もの資産を残し、投資という方法で社会イノベーションに寄与したバフェットは約100兆円というケタ違いな資産を得ている。

 

しかし最も重要なのは、それら全てはお金の価値ではなく(その時代の経済効果の影響を受けるという前提で)社会貢献の価値(地位=ステータス)が金額として表れているだけであり、彼らは全て自らの力(や資金)を人に与えて成功しているという事実を見落としてはいけない。

 

だからこそ、”持たざる側”であるなら、まず先に自分が得ようと思うのではなく、”欲すればこそ与える”しかない。という事。

 

補足:昨今の副業ブームの煽りもあり、特に経営ノウハウなど学ぶ機会もない一般家庭の人がビジネス(特に昨今の某チューバー等のネットビジネス)を始めてもうまくいかないのは”好きでも得意でもないのに、お金目当てで始めるから”ではないかと思う。

 

好きな事を仕事にする人

スティーブ・ジョブスをはじめ、多くの成功者が口にすることだが、世界屈指の経済的成功者たちも「好きな事を仕事に」と言ってるのだから、経済的成功者はウソをついているのではなく、すなわちこれは、”自身で判断したもの”と言わざるを得ず、「好きでもない仕事でもどうしてもやらなければならない理由」は福利を対価とした先に束縛されるもののように思う。

 

それに、社会では(特に学校では)不向きな事を頑張ることを美徳としている風潮があるが、それが真理ならば、『碁打ちは野球を、野球選手は囲碁をやるべきだ』という理屈が通ってしまう。

 

しかしながら、それは考えずとも分かるとおり、”明らかにムダ”であり、やはり自分の中で一番得意な事・好きな事(人と比べてではなく)のほうが、自分のためにも社会全般のためにも大きな成果が出るのは間違いない。(自問自答:多分これは「功利主義」的考えなのかもしれない。)

 

なので『好きな事をする』は絶対に必要な部分であり、ただしそれは「利己的な好き放題」ではなく、「社会に良い価値を与える事が大前提」だという事は忘れてはいけない。

 

「買う自由」と「買わない自由」

前述の通り、評価されるには「与えるしかない」のだが、しかし「持たざる側なのに、どうやってその資金を捻出したらいいのか?」という矛盾が生じてしまう。

 

その方法は単純で、出来る限り贅沢を慎むだけ。なのだが、資本主義の構造上、生産と消費の循環によって成り立っているため、消費を肯定する仕組みになっており、SNSやYouTubeなど、何を見ても物欲が刺激されてしまい、その感情から抜け出すのが難しくなる。

 

ただしこれは、資本主義社会が直接欺瞞(詐欺)を働いているわけではなく、個人の選択になっている。

 

消費者には「買う自由」「買わない自由」を同等に与えられているのだけれど、資本主義の構造上「買わない」という選択の先に幸福があるようなマーケティングが存在しないので、インフルエンサーなどの優雅な生活(見せかけの可能性が高い)に感化されると、ずっと消費し続ける事になり、より多くの収入が必要となり、ますます労働から抜け出せなくなる。

 

これが資本主義社会にとっても好都合で、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』で描かれていた全体主義国家のような直接的な思想統制の必要はなく、自らの自由選択という体裁を取りながら、実際には資本主義の巧妙な仕掛けによって、個人の欲望が際限なく刺激され、自発的にシステムに組み込まれていく。

 

『買わない自由』は存在するのだが、マーケティングは常に新しい商品、より大きな欲望の充足、他人からの羨望の眼差し(つまり「見栄」)こそが幸福への道だと喧伝する。その欺瞞性を見抜けないと、近所が普通に持ってる”それ”を得なければ負け組だと感じてしまい、「貯金ゼロにもかかわらず贅沢品に囲まれた生活」に陥ってしまう。

 

こうして多くの人々が、表面的な豊かさを追い求め続ける事になり、資本主義は「欠乏感」を埋めるためには消費が必要だと刷り込むことで、労働者は自らの意思で、より長く働き、より多く消費するサイクルから抜け出せなくなり、それを労働の美徳だと自ら言い聞かせて、経済という巨大な歯車を回し続けるギアとなり、ずっと消費に駆り立てられてしまう。

 

だから、自分にとってそれが本当に必要かを選択する自由(買わない自由)が資本主義(民主主義)には用意されているという事実を知る事が重要であり、そして、たとえ「持たざる側」だったとしても、不要な贅沢を慎むことで他者に与えるための原資を得る準備ができるようになる。

 

『お金のための労働』から抜け出す方法の「解」

上述を踏まえて、少なくとも私が辿りついた「解」は、、、

 

一般労働者の家庭に生まれると”より稼ぎがたい”のは、”真面目さ・(学歴的)賢さ”から来るものではなく、「資金がそもそも無い」という現実問題も大きくあるけれど、お金がないことへの不安から、短期的な利益を優先してしまい、短期的な利益を追求するほど「価値提供」から離れてしまい、人に(特にタダでは)与えたくないのに自分だけは欲するから、より負のスパイラルに陥ってしまっているように思う。

 

労働が報われないかどうかは、福利が叶ってるかどうかであり、即ち、必ずしも労働だと報われないわけではなく、福利を取るか自由を取るかは各人の問題になる。

 

とはいえ、これに漬け込んで、労働者に無理を押し付けてる企業が多くあるのも事実なのだけれど、雇われた側が、貰った給料で私欲を叶えている(恋人とデートしたり、結婚したり、ローンで高価な物を購入したり)という事実がある。

 

なので、得た給料で贅沢をしているにもかかわらず、幸せに感じないのなら、”物質主義”に陥ってしまっている。

 

「自由のために生きるか」それとも「福利のために生きるか」は、個人の選択なのだが「買わない」という生き方は消費社会にとって都合が悪く「買う方」を肯定するので、先に欲してしまうと労働から抜け出せない原因となってしまう。

 

冒頭にも述べたように「機会は平等に与えられていない」これは絶対的な事実。しかし、優遇された環境という前提条件があろうとも「社会に良い影響を与えている」という事実が評価されるのが現実世界のルールになっている。

 

だから、まず欲する前に与えるべきだと知る必要があり、それは投資や起業という事ではなく、自分にできる事を活かして社会に価値を与える事でそれが社会評価となり、その対価として後から報酬がついてくると理解することが「お金のための労働」から抜け出し、主体的に生きる鍵になるのだと思う。

 

おわり

私の両親はその時代にしても特に貧しい幼少時代を生きており、そこで培われた根性が良くも悪くも、どんなブラックだろうと必死に耐えるという資本主義にとって最も都合のいい「プロレタリア根性論(≒労働の美徳)」を叩き込まれてしまう。

それで報われるならまだしも、父は長年勤めた会社に負債の責任を負わされ、挙句の果てに大病を患い若くして亡くなってしまった。

そんな親を持つ私は、どうしても「社会が嘘をついてる」と感じてしまうのだけれど、投資家・経営者は、お金の為に働きたい人に”自分の資金から給料を出している”のは事実であり、「そうなるまで頑張れ」と言われていないのは間違いがない。だから福利がある。

少なくとも社会はそういう体裁(建前)のもとで回ってる。

 

だから、冒頭にも述べたように、社会は平等ではないのは事実なのだけれど、そもそもお金とは労働の対価ではなく社会貢献の対価であり、努力や苦労(苦悩)の対価ではない。

なので、彼ら(優遇された家庭環境の側)が、C卒で自由に学ぶために新聞配達したり、イカツくもないのにビル解体という過酷な労働経験などもなく、普通に留学して人脈を得る事で富を築く上で有利な条件を手に入れ、普通に恋愛や結婚を得られて当然の事だと享受できるとしても、彼ら(起業家・投資家)が評価されるのは社会に役立っているから(与えているから)という事実がある。

 

だからその社会の不平等に対して、ただ被害者意識を持つのではなく、資本主義の仕組みを客観的に見抜く必要があり、無いなら彼らが得られる「普通」を代償にしてでも貯めるしかないので、つまり「福利か」「自由か」の対立に対して自由が得たいと思うのなら、可能な限り贅沢を慎み、他者に与えるための余裕を、つまり「原資」を得る必要があるので、(全員ここまでするべきだというつもりは一切ないけれども)少なくとも私は『肉体労働が幸せになれない理由』でも触れたように結婚、それに伴う恋愛さえも諦めるしかないという結論に至ったという事です。

 

抽象的だったので、少し補足:

そしてその「原資」を、「”偶然”豊かな家庭に生まれた”優秀な人”」に投資を行えば、自分が”偶然”経済効果に不利な環境で、努力も報われにくいとしても問題ではなく、つまり自分が優秀である必要はないので、彼らに嫉妬する必要もなければ悲観する必要もない。(開き直りではなく事実論として)

むしろ、彼らがどれだけ優遇された環境だったとしても彼らが生み出す価値(経済効果)が高ければ高い程こちらにとっても有益になるのだから感謝に値する。つまりこれが、経営者・投資家たちが口を揃えて言う「君のおかげで会社が(社会が)潤う」であり、投資の真理なのだと思う。

だから、彼らの評価のために競争するのではなく、優れた価値を提供できる人(優遇された環境で得ていたとして)に資金を投じる側(貢献する側)に回る必要がある。

そうする事で、出来レース的な(親のお金で留学できたような)優遇者優位の不平等な競争から脱することができ、持ちえない側でもできる高い価値を持つ社会貢献(社会イノベーション)となって自らの利益にもなって返ってくる。

その結果、他者の承認や一時の流行に依存し「一発バズれば大金稼げる」と必死なインフルエンサー的な生き方や、昨今の流行言葉の「セミリタイヤ(サイドFIRE)」などという低次な価値観に支配されることなく、労働の目的が「お金の為(生活の為)」から「自己の尊厳の為」となり、セネカたちのいう「真に生きる生き方(豊かな生き方)」を得られるのだと思う。

その為に何としてでも先に「原資」を得る必要があるという「解」に至るという事です。

 

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