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【運も育ちの良さがカギ?】『認知的焦点化理論』の矛盾。それでも利他的な方が良い理由。

”TPO”などといった、普通の大人なら当然知ってるであろう言葉さえあまり知らなかったりする”最終学歴が「義務教育」程度の学しかない私←フラグ”は、「認知的焦点化理論」という言葉をここ最近知ったのだが、、

これの意味を長々書くと本題がずれるので、要点だけ触れると、「運はその人の持つ意識の差(自分の利益しか考えない人=利己的な人&人の事を考える人=利他的な人)によって決まる。」というようなことを説明している。

 

 

これを読んでみると、「100%間違いだ」とは思わないけれど、いうなれば『後天的な運』だと思える。(利他的≒投資という観点には賛同)

言い換えると、利己的な人は人が離れていき=運が悪い、利他的な人は人が寄ってくる=運も良くなる。という事のようだが、それはある意味では間違えてはいないが、”そもそもの部分”にまでは言及できていない。

 

例えば、「友人だと思ってたやつに騙されてお金を取られた」なんて場合に、利己的だといい友人がいないが、利他的だと友人の中に弁護士がいて相談でき、回収できた≒運がいい。というように解釈するなら、それは明らかに間違いだ。

それに、”タカラくじの当たった人と当たらなかった人”、この単純な運は利他的だから当たった。なんてことは絶対にありえない。(一旦、前提として)

だからこの発想を持つ人は、(毎度こういうと嫉妬のように聞こえてしまうが、説明ができないので)はっきり言うと、最低限”普通”とされる家庭環境(要するに両親健在で高校や大学を”普通に”通える程度の)という前提があるように思う。

 

良い友人関係がイコール運の良さだというのであれば、小学校などの幼少期から、なんらかの理由(容姿とか性格〈意地悪ではなく変わり者など〉とか)で、毎日理不尽に”小さな嫌がらせ”を受け続けたら、、それを親・先生ドモも守ってくれなかったら、、それでもなお人に良い影響を与えようと思えるのか?というのが、即ち最低限”普通”とされる生き方ができる(できた)家庭環境の人には前提として入っていないので、そのような人から「利己的だから運も悪いんだよ!」なんて言われた日には(真実だけれども)運の悪い側は「ウルセー」となり、また卑屈になってしまう。

なので、最低学歴でC卒後→新聞配達→華奢なのに土建まで経験した”運の悪い側の私(←フラグ回収)”が、それでもなお、なぜ利他的にふるまうべきなのか?(少なくとも私はそう辿り着いた)というのを説明していこうと思う。

 

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卑屈は負の連鎖を生む

プロフィールに”肩書き・経歴”を書いているブロガーは多く、読者に親近感を持ってもらうためや、運営者の信頼性を高めるためなんだろうが、素晴らしい肩書きは時として胡散臭くもある。

「学生時代に海外に留学後、、」や「大手商社に就職したのち、、」というものを目にすると、事実はどうあれ、信頼性より自慢に感じてしまう。

けれども一般的には「元エリート大生が教える○○」や「元大手金融商社マンが教える○○」といった本の方が、「凡人が教える稼ぎ方」なんて本より売れるのだから仕方がない。

「高卒でもできる○○」も、ある意味それと同じ手法の逆バージョンの肩書き商法としてあるけれど、どちらにしてもそのやり方は胡散臭くみえる。

 

裕福な家庭に生まれ人生を歩んできた人の内容は、良好な学生時代で正しくあるべき世界を見た人生から「善」を語るその言葉に実際間違いはなく、そうであるがゆえに不平等であるこの世界でいかに楽しく生きるかはまでは語られていない。(語りえない)

 

『ロンドンの大学に留学しblabla』『大手商社に入社後blabla』『その後結婚して子供を授かりblabla』

 

嫉妬は無意味であり、八つ当たりにしかならないが、そもそもそういう人生の中で”普通”を語る人は、たまたまの不遇によって感じる人の劣等を理解できない。

その劣等の中で規律を守り、人生を考え、どうすれば豊かになれるのかと考える事と、そもそも大学にも”当然”行けて、サークルなんかでそれなりに異性と出会い、恋もして結婚できる前提で考える幸せの定義は根本的な部分が違う。

そんな世界で(一般的に嫌われたりするが→)「発展途上国に行けば日本人というだけで優遇される」というのは一つのあり方/方法だと思える。

 

以前「ベトナムでロングステイ」という本で「経済格差を利用した遊び」という表現を目にした。

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それは下世話な意味ではなく、日本にとっては決して大金ではない10万でも十分暮らせてしまうという事実を表現したもので、どう取り繕ってもその事実はゆるぎない。

実際、ベトナムのような物価の安い地域ではなく、ヨーロッパの高級リゾートに1週間でも滞在しようものなら平気で数百万かかるのだから、その価値の違いは「経済格差」以外に表現が見当たらない。

それを”汚い”というのなら、人々が読みたがる「元エリート大生の…」と関された本を書ける、”エリート大学に行かせてもらえる家庭”に生まれた事によって書けるその本も、”海外に留学させてもらえる家”に生まれた人だから書けるブログも”汚いもの”になってしまう。

だがそうはならない。

 

要するに、優遇されたものの良心に不遇者は委ねられていて、不遇なものの親切より*優遇者(家柄が良い人)の親切のほうが利益的効果も高くなる。

*補足そもそも資産のある家庭と資産のない家庭で個人が社会に与えられる影響の差。例えば、某チューブで街ぶら動画をやると仮定した場合、日本のその辺を撮影したものより、ハワイやローマを撮影したものの方が経済効果も高い。と捉えてもらうとわかりやすいと思う。)

 

そうであるなら「経済格差を利用した遊び」も、地域の違いによる不遇な人にどういった形であれ利益をもたらすのは間違いなく、これもまた正しき行いといえるのではないか。

 

ただ「10万でも東南アジアに行けば豊かになる」という根本には、10万でも豊かになれるのではなく、10万の価値が50万相当になるからであり、豊かさをお金で換算してる事に変わりはない。

結局の所、「お金」的な解釈で幸福や豊かさを考えてしまうと、持ちえなければ豊かには成りえないことになってしまい、それでは「自分のほうが持っている(=利己的)」といった競争社会で見栄を張りあう疲れた人生になる。

 

卑屈からの脱却

人生を点数で言うのもアレだけれども、あえて表現するなら総合的に51点以上の人生を持つ人が感じる人生論と50点未満が感じる人生と、極端に良い90点や、その逆の人が感じうる世界は違いがあって、より良い環境に生まれた人ほど、正義や善を社会論的・大衆的な見解(=利他的)から発言するだろうが、より悪い環境に生まれた人ほど、目の前にある事実が唯一の真実で、きれいごとでは食えないという事を語る。(=利己的)

だからといって本質的に悪(犯罪)は認められるものではない。にもかかわらず、逆に、優遇された人が「お金の対価で得る幸福」は犯罪にはならない。

 

その不平等な世界で「持ち得ない側」でも幸せになるには、まず損得を考えず、無償で自分の出来うる限りの価値を他人に与える事しかないように思う。(利他)

そこに矛盾が生じるけれど、そもそも収入は人の感謝から発生するものであり、収入・報酬だけのための仕事は、お互い利益のために動いている限り、収入量だけが重要であり、多少収入が良くとも、そこに”生きがい・やりがい”を感じるとは限らず、そもそも楽しくなければ幸せを感じるわけもない。

 

ただ「無償で価値を与える」というのは「誰にでも親切に」という事ではない。

えてして、「騙されて全財産を失った資産家」というようなものは、無償で価値を与える事と、親切を履き違えてしまう事で、利益目的(利己)の人間に奪われてしまっているのだと思う。

その選択は、自分にも無償で価値を与えてくれる人や、その行為を理解してくれる人であること。そうしなければ、ただの偽善となって利益のために近づくものの餌食にもなりえる。

 

利益を見ている人はお互い利益でつながり、価値を見る人は価値によって繋がる。

利益からは「もっと」という要求が生まれ、価値からは「ありがとう」の感謝が生まれる。

 

価値をデッチ上げて稼ぐ人もいるけれど、それを否定することに価値はなく、どうあれ他者の批判より、人の役に立つ事に時間を割くことに価値がある。

だから自分より稼いでいる人に嫉妬したり、”人の稼ぎ方(留学できるような家庭でblabla)”の否定には意味がない。というか、時間の無駄だということ。

 

持ち得ない方は往々にして卑屈になり批判的になることで、より一層負の連鎖をおこし、うまくいかない原因になっているように感じる。

だからこそ持ち得ないのなら、あえて稼ぐ事は考えず、無償で価値を与える事しかない。

多くの成功者が、様々な表現で成功エピソードを語るけれども、どれも表現が異なるだけで、結局は人に価値を与える事で成功している。(ラリーペイジにしても、スティーブジョブスにしても)

私利私欲で自分だけが稼ごうとして成功する事なんて、皆無ではなくても難しすぎるし、特に持たないほうは、資金力(要するに投資)で価値を作り出すことは難しい/不可能なのだから、相手のために自分に何が出来て、何が足りないのかを考える事で始めて幸せ(=幸運)になるためのスタートラインに立てるのだと思う。

 

終わり

偉そうな事をいうつもりは無いけれど、結局、善良である事の正しさを履き違えない事が重要で、卑屈になる事でより一層負の連鎖を起こしてしまい、「騙してでも・・・」といった利己的な発想になってしまう。

だから、”持ちえないからこそ、嫉妬したり、人を非難したり、嘲ったりしないようにするべき”なんだと思う。

 

’23:追記

先日『認知的焦点化理論』という言葉を知り、一つの理論として評価されている?けれども、この話の矛盾だと感じる部分が、この話にもつながると思い、大筋では全く変えてはいませんが、別ネタではなく冒頭に追記しました。

 

うちの両親は、幼少期〈超が付くほどの〉極貧だった影響で、人を見たらまず信じるより疑う気質があり(当然悪人ではなく寧ろ社会的には良い人だと言われる)、それを見て育った私もまず疑ってしまう気質があります。

実際、親も幼少期はまともな環境ではなかったので、母は一時期小学校にも通えず、必死に貯めたなけなしの貯金を近所の悪いヤツに騙し取られたと語っており、父はその時代にしても超極貧で、幼少時代、食うに困り、母から手を引かれ”入水”直前まで経験したようで、そんな両親の下、私自身は最低限の環境はありましたが、地方のいわゆる古いヤソキーがまだギリいたような地域環境で、いい友達も居たけれど、”地域環境の質の低さ”とでも表現するべきか、、同級生からお金を盗まれた事や、父は長年真面目に努めた会社の負債を”強制”退職金で払わせられたり、それでも人を信じろと、「だから運が悪いんだよ?」と”あなた達”(最低限の運がいい”とさえ気づいてない側”の人達)は言えるのか?と、シンプルに思ってしまう。

まずそこに行きつく。

これはそれぞれ環境の違いはあれど、いうなれば”先天的不運サイドの人”の多くが感じる部分だと思う。

そんな人に「利他的になれ」とか言われても、はっきり言って腹が立つだけだし、だからと言って、良い人のふりをしても、潜在意識が利己的だと、たまたま最初にうまくいくことがあっても、長い目で見ると確実に人間関係は悪化して不幸になる。

でも、卑屈になるとより利己的になってしまうから、結果としてまた後天的な運さえも悪くなるという悪循環に陥ってしまう。

そのような状況で、”先天的不運者”が「どうすれば利他的になれるか?」と考えた時に、(お金が悪いとは決して思わないが→)いくら稼げるか?より、まず自分のやりたい事/生きがいを感じる事を見つけ、それに時間をかける事が重要で、

その”自分のやりたい事”で、社会にいかに良い影響が与えられるか?と考えるようになれば、それが自分自身の楽しい事になり、おのずと感謝にも繋がり、良い人間関係にも、すなわち結果として”利他的な方が運も良い”という『認知的焦点化理論(的運)』にも繋がる。

だから、自分より幸福な人に嫉妬するのはやめて、貴重な時間を嫌いなものの否定に使うのではなく、好きなものの肯定に使う事こそが唯一の最善策なんだと思う。

201128_編集 220304_補足 2312_冒頭&追記編集 2401_微編集

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