以前、わたしは土木業で収入を得ていて、その前も建材の配送など、”まさに絵に描いた労働”で収入を得ていたのですが、それは非常にきつい仕事で、きつかった分だけ見返りも欲しくなり、「働いた分欲しいものを買ってしまう」という時期がありました。
買い物も購入するときは楽しくて、新しい服を着た時の高揚感は気持ちの良いもので、やめられなくなってしまう。
けれど、そのように1年2年繰り返すうちに、その欲にはきりがなく、「ずっと続けなければならないのではいか?」と思うようになりました。
そんな折父もガンに倒れ、必死に働いた会社からも見放され、他界するその日まで父の看病をしながら「どう働くべきか」を考えるようになった。
会社が正しい企業ならいいけれど、収益のために存在するような会社での労働は、生涯収入のみに追われて、本質的には豊かにはなれず、虚しいものになってしまう。
労働のすべては悪い事ではないけれど、労働自体を正しいと思いこむことは、悪行にもつながり、自身の幸せからも離れてしまう。
それは例えるなら、反社会勢力が、反社会的行為を行うための資金を集める為に興した会社(と気づかず)で労働することや、詐欺や空き巣の様な完全な犯罪も、その行為や、前段階での準備は”労して働いている”すなわち労働であり、”労働による収入(収益)”が成立してしまう。
それは極論ではあるけれど、企業には一部明らかに収益のため”だけ”に存在する会社があるのも間違いがなく、そこまで酷くはなくとも、価値の提供より、収益を優先させてる企業が多いのも事実。
けれども、だからと言って、労働収入を全て悪だと言うのもおかしな話に思う。
正しい労働とは
労働そのものが善という事ではなく、労働の先にあるものが善であれば、その労働が善にもなる。
ならばその労働の先が善か悪かの区別は、つまり、”収益のために存在するもの”(企業や商品)なのか、他者への”価値の提供のために存在するもの”を作っているのか、などで区別出来ると思う。
けれども、社会は頭のいい人間によって巧妙に隠され、「労働収入ではもうからないからダメ」と嘯いたり、実社会が月収5万では生活できないという問題があり、価値提供を重視してても、収益に偏った労働を強いられてしまう一面があるように思う。
ただその生活費も本当にかかる費用以上に使っている人が多いのも事実で、
例えば、高額ではなくとも、流行り廃りで買い替える服や、効率に違いはない高級車を欲したり、内容に差ほどの違いもないナンバリングゲームの新作を買ったり、などなど、挙げだしたらきりがない。
それらは買ってはいけないのではなく、収益のための労働によって得た収入から買っていたら、永遠にそれを繰り返さなければならなくなる。という事。
要するに、収益のための労働では収益が一番であり、その収益が足りなければモラハラ上等の暴言も吐かれ、そうやってようやく手に入れた収入だからと「欲しいものを買う権利がある」と思ってしまい、30万でも40万でも働いた分だけお金を使ってしまう。
そういった物質的な物を手に入れられるから幸せだという事ではなく、自分が持ち得る部分から無理なく使える金額には個人差があり”収入が多い人とそうでない人”がいるのであって、”多ければ豊かで少なければ豊かでない”という事ではない。
そこを勘違いすると「労働収入より儲かる方法」などと考えてしまい、更にみずから幸せから離れた考えになっていくように思う。
それに、人は千差万別違い、歌って踊る人が誰しも”安室奈美恵”になれるのではなく、それは当然運のようなものにも左右され、努力だけではどうにか出来る問題でもなく、それを受け入れることは寛容で、
とはいえ”諦める”という事ではなく、まず正しい行いのための労働であることが重要で、そうでなければ、どれだけ収入を上げようとも虚しく終わるのは、歴史から前例を探し出さずとも、収入の多さで選んだ会社の労働で、必死にものを維持する親戚や家族を見るだけでわかる話だ。
父のようにブラック企業に務めた挙句、病気にでもなってしまったら、それまでの行いに幸福を感じるはずもない。
その悪循環から抜け出すには、実際はまだ手に入れる段階ではない物の購入は控えるしかない。
見栄えが全て不必要とも思わないし、それに対し理屈をこねて正当化しようとも思わないから、小奇麗な服を着ているのは悪くはないと思う。
けれど、「周りに流される」とは結局、様々な要因によって、自分よりたまたま収入が多い人が持っていたり、維持できたりするもの『位置財』(フレッドハーシュ:成長の社会的限界)を、無理してでも自分も手に入れ、維持する行為なんじゃないかと思う。
それは、他人から見たら持ち得る間豊かに見えるけれど、それを生涯必死に維持するしかなく、その労働を続けるのがいやだから、「タカラクジ」だったり「労働よりもっと儲かる方法」などと考えてしまうのじゃないだろうか。
いつか将来「自分が得たものは何だったのか」と考えるようなことがあれば、きっと虚しくなる。
そうならないためにも、仕事は、労働をイコールで”正しい”や”間違い”で考える事がそもそもずれていて、「正しい労働」かどうかで判断する必要があり、そこで得られた収入量は本来先に考えるべきものではないのだと思う。
ブログで収入が入るようになると、「多少ほったらかしでも収入は入り続ける」と言われたりもするけれど、それも、日々記事を編集したり、どんな内容にするか悩んだり、実際に執筆したりといった”労働”と言えるものの先にあるもの。
当然記事を購入するアフィリエイターもいるけれど、それだって、無労働というわけではない。
当然資産家のような家に生まれ、資産を食いつぶすような生き方をする人もいるだろうけれど、それを羨ましがってもどうすることもできないし、そのような人からは人生を学びようもない。
収入とは『価値提供』から発生するもの。と思っているし、楽であるならそれに越したことはない。とも思っている。
けれど、往々にして両親のいう、”会社に雇われ、月収稼ぐサラリーマンと同等のもののみを「労働」”というから、「そもそも収入は労働からではなく価値から発生している」と言わざるを得なくなっているだけで、
それは労働に価値がないという事ではないし、「労働よりこの方が儲かる」などと嘯く人は確実に何か裏のようなものがあるのだと思う。
要するに、価値提供から収入は発生するのだけれど、その”価値提供”は労働によって行われていて、その労働が「好きな事か嫌いな事か」は別問題としてあるもので、少なくとも労働しない方法で収入を得る方法なんてないと思う。
まとめ
なんだか話のまとまりがつかなくなってしまったけれど、いわゆる「こっちの方が儲かる」というような事と、「堅実に働くのが一番」という話の両方にウソようなものが入っていて、
価値ではなく労働で収入続ければ、それは生涯労働を収入とするしかなく、価値の為に労働した人は将来価値によって収入が得られるようになるのは当然だと思う。
だから「自由に生きたければ、労働収入ではかなわない」というのも事実ではあるのだけれど、それを都合よく解釈して、「労働しなくても稼げる」と考えるのは間違いだし、そのように吹聴する人の話を、「収入を得るには労働しかない」という両親と同じくらい疑ってかからなければならないのだと思う。