前回、ちょっと勉強が苦手な我が子に対し、すぐに「障碍じゃないか?」と口にしてしまう親族に対し「リベラルアーツ(教養)が足りない」という表現を使ったけれど、その学歴的優劣のみで測る一方的な価値観は子供の「本当の個性」を殺してしまうように思う。
成績がいいというプライドがあるのはいいけれど、高学歴で頭がいいのに「幸せ」より「高収入」や「社会的地位(肩書)」を美徳としてしまう。
もちろん、長年の価値の研鑽の末に地位や肩書がつくことは素晴らしい。だからそのために「学(歴)の重要性」を説いているのかと思えば、親自身(その子の親)が人気・好感度に依存したインフルエンサーに妄信してしまっている。
それも、ただ見て楽しむだけなら個人の自由だけれど、ネットに限らず「一発バズれば稼げる」と「それが商売だ」とかなり本気で思い込んでいる節がある。これでは子供の方も何を学べばいいのか見失ってしまう。
リベラルアーツを学べば好きな事が仕事にできるわけじゃないが、そもそも収入の多寡で進路(就職先)を迫る事自体が教養あるものではなく、だから生きる意味(意義)を見出せなくなってしまい、成功というものに対し「堅実なエリート」か「一獲千金のインフルエンサー」かといった二元論に陥ってしまう。
社会構造が複雑化し、畑を耕すだけでは裕福に暮らすのは難しく、労働でより高い収入を得るには、学生の間に少しでも多くの専門知識を身に付ける必要がでてきて、そのせいで、「収入を得られる理由」や、「そもそもどう生きるべきか」なんてものが蔑ろになってしまっているように感じる。
どちらにせよ本人が心地よく生きられるのならそれに越したことはないけれど、特に親や教育者など次世代を導く立場にあるのなら、「某動画チューブ」のキャッチコピーじゃないけれど、「自分らしく生きていく」ということの本質を今一度問い直してみてほしい。
「教養」の中に見出す「本当の個性」
「教養」を考えたとき、『他人に迷惑をかけない』というような当然のことが思い浮かぶけれど、誰かの作った物語で良い人を演じていて、自分が幸せになれるわけが無いのだから、そのために”自分らしさ”をなくす必要はなく、むしろ、個性の中にこそ見出すものだと思う。
けれども”個性”とは、競争で勝ち得るものでは無く、他より秀でている必要もなく、ただありのままの自分であれば良いだけ。なので、それは、無理やり人と違う事をやるというような自己主張とは違う。
人は、その日、その時、全く同じ空気を吸っても、全く同じ感想を持つことはありえず、それがまさにオリジナルになる。あえて言うならば、もう何番煎じかもわからないほど、やりつくされたものであったとしても、自分が人に言われるわけでなく始めるのなら、その瞬間オリジナルになる。
その「オリジナル」もまた、他との競争における”らしさ”のために行っているのなら、それはまだ人の物語で踊らされている事になる。
要するに、自分はこうだ!というキャラを、人の物語で演じているだけの道化師という存在になってしまう。だから自分が何番煎じだとか、誰かとかぶるとか、かぶらないとか、そういったもろもろの感情は初めからずれてしまっている。
例えば、「ギターを弾きたい」と思うなら弾けばいいだけの話で、どうせ、殆どが、1位にはなれないけれども、そんな事どうでもいい。
本当に好きで弾き続けた人の中から、歴代ギタリストランク8位も12位も2位も96位も生まれ、その中で最もすごかった人が100年レベルで1位と言われるだけの事。(ジミヘンとか)
その現実で自分が1位になれないからと言って言う「オリジナル」は本質的な「オリジナル」ではなく、あえて厳しい表現をすれば、「負け惜しみ」になってしまう。
だからこそ、本当に好きかどうかが重要で、本当に好きなものならば、順位や、自分よりうまいとかヘタいとか、そんなものは一切関係なく続けるだろうし、小難しい「リディアンクロマチック(LCC)」を習得する事が重要ではなく、ベタな「マイナーペンタ」もまた「オリジナル」になりえる。
それは、努力は必要ないというわけではなく、本当に好きな事なら、人からは苦行に見える事を、ウン十年間も本人には苦行とさえ感じずやり続ける事ができるので、結果、ギター一つとっても、弾けるようになって行くのだと思う。
↓一応この程度は弾けます
それは音楽の話ではなく、真理の話だと思う。
教養もなく商品として生み出されていくものは、順位のなかで競争を繰り返し、その中でたまたま注目されたもの(経済効果の高かったもの)が、つかの間評価され、そしてまた”新しいだけ”のものに飲み込まれていく。
時間の限られた人生の中で全てを知ることはできないけれど、ジョニ・ミッチェルや、ジョン・レノン、ボブ・ディラン等々といった時代に関係なく世界中で評価される真のアーティスト達は、歌を通して本当に意味のある何かを伝えようとし、だからこそ、世界中から評価されている。
そんな真の意味でのアーティストは、現代の競争社会でお金を稼ぐ事が豊かとされる考えでは育まれないように思う。
だから、哲学やリベラルアーツ(教養)を進学のための知識として勉強し、実社会に役に立たないと言い、流行に踊らされる人生では(例え、表面的給料が多少良かろうとも)本質的幸せは掴み得ない。
「嫌なことを仕事にする人」と「好きなことで稼ぐ人」
誇りもやりがいもなく収入の為に仕事をすると、欲しいものを買えることがご褒美ではなく目くらましともなりえ、将来いつか疑問に思う日がきたなら、そこに費やした時間に絶望する事も考えられる。
「今こそ革新的なリベラル・アーツ教育を」ベニントン大学(Bennington College)元学長、リズ・コールマン(Liz Coleman)引用:ted.com
「何年も後になって『何をしていたのか?』と訊かれたらどう答えるだろうか?」という問い(8分42秒~)
ただ、それは全ての人に当てはまるものでもなく、最後の瞬間まで気づかない人や、最期まで健康に生き、老衰という”最高に運の良い平凡”を生きる人も少なくとも存在する。その中で、”自分が後悔しない生き方”ということを考えた瞬間に、人生を運否天賦や、人の評価に左右されない生き方を目指すようになる。
その結果、身の回りにある贅沢品から、本当に好きなものだけが見えてきて、いらない物に囲まれた生活にむなしさを感じてくるようになり、それが他者から見ると、鬱だとかノイローゼだと言われたりする。
しかし、それは本質的な幸福を目指すからこそ感じるものであり、少なくともそれまでは、やりたくも無い仕事でも役職を与えられ、それなりの車を5年ごとに買い換えられる方が豊かに見え、その贅沢品を持ち得ないほうが不幸せに見えるかもしれないが、その一瞬の物質的幸福は、子供のとき何度となく経験した「誕生日やクリスマスの次の日」と同じ気分だ。
誰しも可能では無いとされる「好きなことで稼ぎ、自分らしく生きれる人生」と言うのは、競争で得られるものではなく、人の役に立つという本質のもと、価値を作り出した人たちだからこそ可能になる。
漫画で例えるなら、誰が頼んだわけでもないのに、自分の描きたい物語を自分の幸福(描きたいと言う欲求)のため描いたからこそ「ワンピース」も「のだめ」もその他数多くの作品が産まれ、それらは全て順位によるものでなく、唯一無二の価値であり、誰が頼んだわけでもなく、無償で作り出したその価値に、『勇気や感動、意欲』などといった価値を多くの人に与えた結果、大きな収入になっているだけのこと。
ビジネスではそれに便乗し似せたものを作れば「最低何千部は売れる」と言った計算の下で作られるものでも稼ぐことは可能で、その”稼ぐための仕事”のために働くから、”嫌な仕事でもやらないといけない”と言う事態になるのだと思う。
ただそれ自体を「いけない」と言ってるわけではなく、そもそも教養(哲学など)を「利口ぶるためのツール」や「進学の為の知識」のように間違えて捕らえてしまうと、目先の給料だけは高い仕事に幸福を見いだしてしまうのではないか。
「労働」の「自由意志」とは
普通程度のサラリーマンの家に生まれて、「とにかく進学することが大事」といった考えをもつ大半の親や教育者が教える”ソレ”は、「自由意志の下の労働(と言う体裁の下)の強制的に選ばされる労働」にもなりえ、「幸せになりたいのか?」それとも、「他者と争ってでももっとお金を稼ぎたいのか?」のどちらを教えてるのか理解するべきだと思う。
先ほどの動画の最後に言われているような、「世界を正しい方向に」等という大それたことを言うつもりもなく、けれども、つまるところ、自分の人生をよりよくすることは本質的に社会が良くなる事でもあり、競争して順位をつける教育や、稼ぐための労働で収入を得る社会は、本来あるべきではない経済の悪い側面の助長なんじゃないかと思えてしまう。
動画の内容は、わたしには理解の難しい所もあるけれど、大学まで行き知識を得た人間が、考慮の末「失敗するかもしれない事はやらない」というような、いうなれば「石橋を叩いても渡らない」などという表現は、慎重派なんてものではなく、知識を持った先に出す答えとして”ありえてはいけない事”だと認識する必要があることだけは間違いないように感じる。
事実、「成功者」の中には、その過程で失敗や過ちを犯してしまっている人も大勢いて、過ちを直接良いことだというわけではないが、そもそも画一的な知識で得られる答えのみでは、実社会では通用しない・該当しない答えが多く、「人生はそもそも失敗するものだ(そこから学ぶものだ)」と認識しなければ、恐怖や理屈で動けなくなってしまう。
だから、どうあれ大学という高度な教育まで受けれる家庭環境に育ち、しっかり勉強して知識を持った末に、「挑戦しない」という答えが出ること自体あってはならない事だという事。(※全員「起業・独立」に挑戦するべきという意味ではない。)
ただ、間違えてはいけないのは、「挑戦する」とは、「人に迷惑をかけてでも私欲のために好きなことをやっていい」ということではなく、「自分の出来ることで他者(社会)にどんな価値が与えられるのか」のなかで自由に決断できるもの。
そのとき始めて、得手不得手も個性も意味のなす言葉になり、収入の上下もあって当然の事と認識できるようになる。
ただ、課せられた労働も、決して悪い事ではなく、それどころか素晴らしい事で、その事実があるからこそ、それに対し盲目になってしまい、それを正しさとイコールだと思ってしまう。
それで本人が幸せであるならそれが何よりだけれど、『他者を幸せにできない私欲的な幸せのための労働(即ちお金のための労働)では、本質的に自分も幸せになりえるはずが無いという矛盾』を理解するのにも教養=リベラルアーツが重要なんだと思える。
「知識」による「教養」
上記の動画からもわかるように、「リベラルアーツをどう教えるか?」について優秀な人たちも考えているようだけれど、結局、教育で収入を得ている”教育者”では本質的にやっている事といっていることにズレがあるように感じる。
「知識のみでは叶わないんですよ」と知識で教えているのでは、床の上で泳ぎ方を教えている事となんら変わりはなく、”指導者を育てるカリキュラムで資格を得た指導者”では、リベラルアーツだろうと哲学だろうと言っていることは頭でっかちな理屈にしかならないのじゃないかと思う。
「学校に行くより本を読む方が・・・」と言えば否定され、、、
「途上国を数年旅する方が・・・」と言えば否定され、、、
そのどれも結局は同じことで、本人がまず”得たい”という欲求が無ければ、何を教えても、最高の教育者が教えても、学べるようなものじゃなく、ただの知識になってしまう。
だから人によっては、マンガからでも映画からでも学び取る人もいるし、すなわち、”途上国を旅する方が教養が学べる”という人は、そこから何かを感じ取っており、「リベラルアーツの教科書も開かず、旅で身に着くようなものでは無い」と言う人の方がよほど教養を身に着けていないのではないのか。
教養ある人とは、人を学歴や出自で判断するような人ではなく、自分自身もまた「これは本当に正しいのか?」と常に自問し、多数決でない本質的な価値を見つけ行動する人であり、教養というものに対し、すなわち「リベラルアーツの学問を受けたかどうか」という考えそのものがずれてるという事。
だから当然、”高学歴でなくては見出せない”ということでは無い。
こういうと妬み嫉みに聞こえるかもしれないが、本質的に彼らのような素晴らしい(とされる)地位を持つ人間の中に、『教育資金もない家庭で育ち、C卒で新聞配達やりながら夜学のK校に行き、陰険な現場監督からワザと足を踏まれてでも土木で数年働き資金を貯めてD学に行った』なんて人が何人いるのか?と思う。
そもそも他者を成績による順位で判断する時点で教養あるものとはいい難く、「学校に行きなさい、もっと勉強しなさい」というのならその理由を完全に答える事が必要であり、親も指導者も「なぜなのか」の追求なく、少しでも高学歴とされる学校に進学させるべく、学問の本質よりもテスト対策を施し、結果、給料だけは多少良く見えるブラック企業に入社させられ、怒鳴られる事に慣れなければ、鬱などといわれ、せいぜい月収50万でも稼げれば勝ち組といわれる。
その「勝ち組」として車でもなんでも維持するためには、やりたくも無い仕事でも辞める事は許されず、続けなければならなくなる。
だから、その仕事がどういった理由であれ、嫌いでなければいいけれど、幸せとも感じないもののための知識ならば、何の意味があるのか。
「社会的に普通かどうか」などというものは、その社会で得する人と不利な人ができてしまう。つまり、男性なら背の高く逞しい顔をしたほうが有利であり、女性ならスタイルがよく、綺麗な顔をしているほうが有利なのは、デッチアゲではない事実でしょう。
その社会で幸せになりえにくい側でも、大多数と同じように労働を得手不得手関係なくやらなければならないというのならば、それこそデッチアゲ的なプロパガンダにもなってしまう。
それは「成功」というものを収入や社会的地位(知名度)などで計ってしまう社会の一方的な意識からくるものであり、自分が幸せである事と他者の幸せが本来同一であることを知ることが重要なんじゃないかと思う。
だから、そもそも点数による順位は自身の向上の為であり、人と比べる為のものではないと知る事ができる。
そうでなければ、地方大より都心の大学、都心の大学より世界の大学の方が優秀となってしまい、そう認識してしまうと、リベラルアーツを学べる優秀な学校を出た自分の優位性を保つために、自分より下位の学校を見下すという、教養のないものになってしまうという矛盾が生じてしまう。
そうであるから、”リベラルアーツを学んだか?や、哲学を学んだかどうか?”ではなく、「その発言や思考は教養のあるものかどうか?」という事を親であれ指導者であれ、人に教える立場であるのなら最も重要なこととして捕らえるべきだと思う。
「教育」という「ビジネス」
とにかく”進学が大事”と思うから、結局その社会では、塾から入学から通学から大雑把にあわせても”1千万円”などという途方も無い金額を大学卒業までに当然のごとく必要になり、
学校を卒業したり、資格を取得しただけでは”実はまだ何の価値も生み出せて無い”という事も知る事も出来ずに、返済のために毎月20万程度は稼げる会社に就職することになってしまう。
「好きなことをやる」というのは「身勝手に」ということではなく、本質的な当然の話をしているのであって、理想の話ではない。現にスティーブジョブスのような大きな成功を収めた”価値の提供者”たちも「好きなことを仕事に」と言っている。
そして彼らの成功は確かに金銭的にも大きいけれど、そこだけを見ること自体が教養からもずれていて、確かに彼らは大きく稼いだけれども、重要なことはその金額ではなく、大勢に喜ばれる価値を提供した事にある。
逆に「稼ぐ人は汚い」といったような誤った発想(多くの不遇側に産まれた人が抱える嫉妬心や劣等感)もそこの誤認識から生まれるんだと思う。
だから、学生時代に「○○科の方が将来稼げそう」と言う発想も、教養あるものでは無く、その発想のままでは、将来ずっと”稼ぐ為のビジネス”に振り回されてしまう。
確かに分野的に稼げる分野とそうで無い分野は事実あると思う。
けれども、「自分が儲かろうとして誰が喜ぶのか?」を俯瞰的に見れば、答えは明らかで、「自分が一番になりたい」等は人の知ったことではなく、「わたしが儲かりたいからこれ買って」では売れないことも、経済学を学ばなくても当然わかる事です。
だからこそ先に最低限見なければならないのが「他者への貢献(価値の提供)」であり、その先に高収入を得る人もいるだけの話であって、そもそも他者に幸せ(価値)を与えずして、目先の利益に捕らわれてしまうから、嫌な仕事をする事が当然となってしまう。
教育もビジネスとしての一面もあり、そもそも進学によって幸せになるとは一言も言っておらず、入学させたい親などが「そこに行けば、難関学校に入れ、その後はエリートとして豊かな人生になる」と思う事で成り立っており、実際、スティーブジョブズなど多くの成功者に中退者が多くいる事からもそれが現れていると思う。
ただ彼らは本質的に頭が良い人であることは紛れも無い事実であり、中退したほうが賢いと言ってるわけではない。
ここで言いたいのは、幸せや成功が約束されているわけではない学問だけで判断し、大学という高度な教育まで受けてもなお、本当に自分が好きな事は何か?何がやりたいのか?も答えが出ないまま、会社の面接のためにSPI対策を施し、当然のごとく「入社したい理由」を述べるのが普通となってしまっていることも、教養より知識を優先した教育が生み出した結果に感じる。
「教養なく詰め込まれた知識によって入社した会社」では、その仕事が好きかどうかは全く問題ではなく、「どれだけ労働したか」に係わっていて、ようするに苦手な科目でもしっかりこなし、与えられた課題に対し、その「問い」そのものを無駄に疑うことなく100点を取ってきた人がその世界で昇進していく。
もちろん、アカデミックな知識の先にこそ可能になる「社会価値」というものも多々あるから、学校教育が悪だと言ってるわけではなく、それだけが正解ではないはずだということ。(このことを上記リズコールマンが問題視しているのだと思う。)
だから、「学校の大切さ」自体を否定するつもりは一切ないけれど、学校(学問)の本来の目的は、テストの点数を競う場ではなく、「自分という人間(個性)が、どのような形で社会(他者)に貢献できるのか」を知るため(身に着けるため)の場であるはず。
そうであれば、一般的価値観から逸脱してるかどうかで個人を図るべきではないし、どんな方法であれ「価値提供できる人に育てること」こそが教育の目指してることで(私の意見と)一致してるはずだ。
「行動原理」は「愛」
『(君は)きっと立派な船長になる。なぜなら、君の行動原理は愛だからだ』
※スター・トレック:ディスカバリー シーズン2第一話より引用
上記は、船(ディスカバリー号)を降りる事になったスタメッツ少佐(上官)が、いい子なんだけどちょっとそそっかしい士官候補生ティリー(部下)に送った言葉。
自分だけが儲かろうとするから、私利私欲的であさましくなり、全員が”自分自分”と、競争がより激化していく。そんな時、その行いの核がどこにあるのかは重要な事だと思う。
そう言った意味で「行動原理が愛であるか否か」という事は最も端的に表した素晴らしい表現だとおもう。
(スポーツ選手などの)競走で勝ち得る人達を否定するわけでは無いけれど、睡眠時間3時間でいい人もいれば12時間の人もいて、歴史的に見ても両者に素晴らしい功績を収めた人がいる。
けれども現代の一般社会で成功するためには、睡眠時間一つとっても短い事のほうが優位になっている。
その中で「不眠不休でも稼ぐ事が幸せ」だと思えないのなら、短時間睡眠の人に合わせる必要はなく、収入の多寡も重要ではなく、自分のできうる限りで少しでも人の役に立てれば悪いことなど何一つない。
「堅実」か「一発」かの二元論ではない「本当の個性」の在り方
そしてここからが本題。
「誰でも個性で稼げるのか?」といった問題。これは、できるかどうか以前に、「そもそもお金になる理由」を学生時代に養わなければ、誰に何の価値を提供できてるのかもわからないまま、労働で給料を貰う事になってしまい、それが「労働阻害」を感じる原因になってしまう。
その息苦しさから逃れるために、「目立てば稼げる」と、手っ取り早い「成功者」に見える、人気・好感度に依存した(華やかなタイプの)インフルエンサーに成功を見出してしまう。
もちろん、その職業が悪いというわけではないけれど、本来「注目(アテンション)」や「インフルエンス(影響力)」というものは、社会に与えた価値の大きさに付随するものであり、結局それは「価値の研鑽(追求)」の末にしか手に入らないもの。
そこを見誤ると、人気を獲得するために「オリジナル(個性)を演出」することを「自己プロデュースだ」と思ってしまうというバグを引き起こしてしまう。
これは決して「クリエイター(表現者)になりたい」と思うことを否定しているのではなく、そこには本来先に「クオリア(自分らしさ)」があり、「流行の追従」や「テンプレ」で手に入るものではない。
厄介なのは、この(現代の)クリエイターというイメージに対し、それこそ「年収億」だのという一発どでかく当たった「メジャー路線」しかないかのように見せてしまうから問題になっていて、何かを「伝えたい」という強烈な「個」があるのなら「インディーズ」という生き方もあるのは世界を見ても間違いない。
特に日本において音楽シーンを見ると、インディーズに対しメジャーへの足掛け(下位互換)のように囚われる風潮があるが、欧米ではインディーズでメジャークラスの知名度を誇るようなバンドも多々ある。
これは音楽の話ではなく、メジャー(資本組織)を否定し、インディペンデント(独立)であることを推奨してるわけではなく、彼らのビジョンの違いであり、どちらにせよ価値の研鑽があって初めて成立する。
その試行錯誤(研鑽)の果てに、「目立つためのオリジナル」ではなく「本当の自分(個性)」が形作られていき、その個性から溢れ出た「価値」に社会評価が伴って、その先にやっと「個性で稼ぐ」が見えてくる。
もちろん、「先行者利益」や「一過性のバズ」により大きな利益を得ることは万に一つはある。しかしその方法で得た知名度は、親しみ(好感)は持たれてもリスペクト(敬意)が発生せず、人の当然の権利(行動や発言の自由・プライバシー)が担保されなくなってしまう。
これは俗に言われる「有名税」などではなく、事実、顔が知られていても(資産相応のリスクはあれど)世間からのリスペクトによって「自由」が担保されている人は大勢いる。
だから、どちらにせよ、「堅実な学歴か」「一発でかい個性か」の択一ではなく、その「個性で稼ぐ」の中には、堅実とは言えないけれども、一獲千金ではない「個性の表現方法(評価の得方)」もあり、そのためには、知名度・影響力を得るための逆算(テンプレ)ではなく、まず影響力を得るだけの「価値の研鑽(追求)」が不可欠だということ。
おわり
今では某チューバーなど『自由に生きる』の代名詞のようになっていて、憧れる子供も多いけれど、「個性で稼ぐとはどういうことか」の本質(教養)を養わなければ、「人気」を「成功」と混同してしまい、それを手軽に得ようとするあまり、オリジナル(らしさ)を「演出」するという本末転倒な状態になってしまう。
(もちろん、地道な価値の研鑽の末に結果として人気が伴うことは素晴らしいことなので、この「某チューバー」という職・活動そのものに問題があるというわけではない。)
「誰でも思うように生きれない」という言葉は事実ではあるけれど、それは紛争地域や貧困地域の人々に当てはまる言葉であり、しいて言うなら、どうあれ大学まで進学できる環境に生まれた人が「自分らしく生きれない」と嘆くのなら、それは「自分らしさ」を「私利私欲(承認欲求・拝金主義)」と混同し、人に価値を与えるでもなく「人気者になりたい」「収入だけは多く得たい」と思ってしまうから、その矛盾に苛まれてしまう。
リベラルアーツ(教養)を養えば「自由に生きれる」というわけではないけれど、他者と比較した収入量や、持ってるかどうか(高価なものの所有)などという考えが、資本主義にとって都合がよい「物質主義」に思考が支配されており、教養のないものとなってしまう。
その世界を疑う力・見極める目(慧眼)を養うために「教養」があり、それを学ぶためには、エリート大学に(高い金を払ってでも)行かなければ学べないという事はなく、教養というものは、高い教育の末にあるものでも、利口ぶるためのツールでもなく、誰しもどんな環境でも「知ろうとする事」から始まっており、即ち思考すればよいだけ。
その「自分の頭で疑い」「自分の足で面白がる」。この試行錯誤の果てに「オリジナル(個性)」が宿り、そこから生み出された価値(作品)に、影響力(人気)が後からついて来る。
これが「個性で稼ぐ」ということの正しい在り方であり、そう認識できたときにやっと「個性」という言葉の本当の意味を知ることができ、他者の目を気にした「偽りのオリジナル」ではなく、ありのままの自分から滲み出る「個性(やりがい)」が収入にも繋がっていくのだと、少なくとも私はそう確信している。
210213_編集 210416_加筆 210719_添削 220131_微編集 231120_一部編集 2312_誤字&編集 2608_清書(完) ※すべて内容の変更はない





