特に昭和後期生まれ位までの世代なら一度は言われた記憶があると思うが、子供の頃に親から「働かざるもの食うべからず!」等といわれ、労働の美徳を徹底して叩き込まれるが、これは資本主義的考えではない、古い意識ではないかと思える。
事実、実際の社会を見ると、若かりし頃に勉強よりヤンチャしてたような人でも、親の資金力であっても、資金力さえあれば、一生懸命勉強し資格を得た「資金力がない人」に資金提供し「共同経営者」といった方法で経営者にもなれるのが資本社会であり、これは悪事ではないという事実がある。
そういった現実社会で、哲学者のような賢い人と、経営者のような資格などなく稼ぐ人との違いや共通点から『なぜ真面目でも稼げないのか?どうして労働は報われないと感じるのか?』を解明していきたいと思う。
知識の弊害
まず始めに、この問題を解明するにあたって、これが前提になってくるので、多少身の上話になってしまいますが、この話から進めさせて貰います。
私の兄弟は、学歴皆無の私とは正反対で幼少時代より賢く、成績もいつも上位で、*地方大学だけれど特待?だか何だかで行き、主席で卒業した(らしい)”所謂お勉強ができる人”で、福祉関係の資格も取得しており、多少の医学知識を持っているので、ちょっと子供が怪我した時などには大いに役立つのですが、反面、“知識上正しい事は正しい”と押し付けてくる傾向があります。
*補足しておくと、教育資金のある家庭ではなかったので、その兄弟も大人になってから、国の支援制度?を利用して大学に行ったようです。
具体的には「*”障碍”が悪口ではない」と知っているものだから、誰にでも(人の子でもわが子でも)平均的でない事に対してすぐに「障碍があるのではないのか?」と言ってしまう。
*事実、障碍という言葉自体は悪口ではなく、いわゆる医学用語とでも言いますか、福祉用語とでも言いますか、要するに、”虫歯”と言ってるのと、何ら変わりはないのですが、、
それがどれだけ医学的に間違えのない発言であったとしても、相手を不快にするという事が分からないのでしょう。
猿よりも猿
ニーチェは著書『ツァラトゥストラかく語りき』で、「(普通の)人間は猿よりも猿だ」といった表現を使っていました。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
私の兄弟をニーチェと比べるのもおこがましいのですが、ニーチェもまた、その発言が普通に生きる人たちを不愉快にするという事に一般認識を超越した真実であるがゆえに気づけないのではないかと思えます。
今を、それを、良いと思って生きる人たちに、仮にそれが将来どれだけ後悔として現れるとしても、使うべき表現ではなく、というより、その表現を使われ「話を聞こう・ついて行こう」と思う人は少ないでしょう。
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頭がよく、善悪の判断がつき、物事を深く理解しようとすることができるなら、人に強要せず(自分が)そう行う事が望ましく、その真実を追求したいという気持ちがある人だけが、(自ら)気づいていくものなのだと思う。
なので、≪超人≫を目指したはずのニーチェは、その思想が普通の人には通じなかったからか(病気が原因という説もありますが)、晩年≪狂人≫になってしまうという本末転倒な結果になってるように思う。
言葉を巧みに使う経営者たち
ここからが今回の本題。
「ものは言いよう」という言葉がありますが、哲学者の多くの言葉は、真実であるからこそ強い表現を用いてしまい、それに対し普通の人は「余計なお世話」という感情を抱き、一方聞こえのいい表現に耳を貸してしまう。
哲学書セネカは、『生の短さについて』の中で、
”誰かから命じられたものを一生懸命やってる事は生きてない”(超訳)
というように表現していました。
ルキウス・アンナエウス・セネカ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
これを現代社会に置き換えると、
『やりがいも感じない職で肩書をもらって出世する人生は、真に生きてはいない。』
というように言い換えられるように思う。
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ですが、これもまた、この言い方をされて良い感情を抱く人も少ないのは間違いないと思う。
それに対し、投資家として成功したロバートキヨサキさんは、著書『ロバートキヨサキのキャッシュフロークワドラント』にて、
「人の行動原理は恐怖で、その恐怖をやわらげる為に、福利厚生を求めて生涯働く人と、自由の為に働く人がいる」(意訳)
と、『”金持ちの方の”お父さん(意味はこの方の著書にあります)から教わった』といったように書かれてありました。
ロバート・トオル・キヨサキ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ですが、この事実もまた「あなたは福利の為にその(やりたくもない)仕事をしてるのでしょう?」と言うと、確実に嫌がられるので、経営者のような人たちは、そうは言わずに、「君のおかげで社の売り上げが上がる」などといった言葉に言い換えているように思う。
けれども、これで”本当に得ている”のは経営者、及び、投資家であることは誰しもがわかる所。
この事実をロバート・キヨサキ氏ご本人も理解しているからこそ、上記著書で「本当に幸せになりたかったら、投資家(及び資産家)になるしかない」と、ストレートに表現している。
なれるかどうかは別としても、投資家のような人は、お金によってお金の問題を解決するから、やりたいことに人生の時間を割く事ができるが(遊びでも、労働でも)、
福利厚生に生きる方法は、その仕事が好きかどうかなど関係なく、労働(時間)によってお金の問題を解決するから、(私の父のように勤勉に会社に勤めた挙句、会社の損失の肩代わりさせられ、不当解雇で退職金も没収され、、挙句、歳若くしてガンで亡くなるような事になるとしても、)途中で辞めるという選択肢はなく生涯働くしかなくなる。というのが事実上”普通程度の家庭”に生まれた殆どの人の生き方になってしまう。
ただその生き方に福利がないわけではない。
しかし、そこで得られる福利は、失業した際に、生涯仕事に行くという契約のもとで受け取れる”失業手当”や、働き続ける限りにおいて”病気の検査”が受けられることであり、そもそも人生半ばで病気にならない保障もなければ、良き伴侶に出会える保障もなく、仮に無事定年を迎えられても保障されるのは最低限の生活であり、”幸せそのもの”というわけではない。
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更には、年金やその他充実した福利厚生(社会システム)に頼れば頼るほど*税金も上がっていき(*少子化の上、景気も良くないのに、物価だけは上がっていくのだから)、結果、長い年月をかけて多少給料が上がっても物価なども共に上ってしまい、一向に生活が良くならないのはそれに依存するからという矛盾を産んでしまう。
要するに、資本主義の基本的な構造としてインフレに向かう傾向にあるので、時間経過による給料アップはインフレにより相殺されてしまう。
なので、会社に所属する事”のみ”を正しいと思い選んでしまった場合、順風満帆に人生を送れればいいが、私の父のように人生半ばで”末期ガン宣告”のような、想定外の悪い事が起きたら「そんなはずじゃなかった」と後悔に繋がっていくのは間違いない。
結局それは、生きる上で”自由の為に生きるのと、福利厚生に生きるののどちらが良いか?”という問題に対して、明らかに”自由の為に生きる(自由を得る為)方が良い”と導き出せるのですが、
それを資本家(今回の定義では経営者)は、(自身の自由な生活を叶えるために)”福利厚生を得たい人たち(要するに労働者)”を給料で雇い、それに対し、多くの哲学者たちは「その生き方は愚かだ」というような表現を使ってしまうので、その渦中にある人たちからは嫌がられてしまう事になり、結局、実際に給料を出してくれる投資家や経営者の方がありがたい存在となり、感謝さえ感じる対象になってしまう。
福利厚生に生きた結果
セネカの「それは生きてない」といった表現や、ニーチェの「猿より猿」といった表現は、現状、当人が良いと思ってやっているのだから「余計なお世話」とほとんどの人が言うのでしょうが、
そうなると、一方、末期ガン患者を多く見てきた医者が、「彼らの最期に言う言葉の多くが『もっと自分らしく生きればよかった』だ」(ソースは忘れました)という話に矛盾を感じてしまう。
”典型的高度成長時代の会社人間だった私の父”もガンの闘病中に日記をつけてましたが、その内容にはシンプルに「もっと生きたい」といった人生への後悔のようなものが書かれてありました。
生前の父は、普通のサラリーマンで、特別良い父親と言うわけでもないですが、仕事にはちゃんと取り組むタイプで、地方の会社ですが、それなりの役職にまで出世しており、お葬式にも、地方役所のお偉いさんなども参列していました。(上記の”お偉いさん”は父の葬式に参列していたにもかかわらず、次の年、父の名で<いわゆる政治活動的な>手紙を送ってきていた。肩書きなんて所詮そんなもの)
亡くなった後にどれだけ「いい人だった」と言われようが、病気から助けてくれるわけではなく、もっと言うならば、どれだけ粗暴で口が悪かろうとも、病気を治してくれる人の方が有益で価値のある人。
ただ、世界はマンガでないので、当然そんな人はいない。
というよりそんな人が存在しない真実の世界であるからこそ、現状を戒めるきつい言葉を”先にかけてくれる哲学者”こそ本来価値のある人のように思える。
だからこそ哲学書(や*般若心経のような本)はいつの時代でも価値のある言葉として評価されているのであり、そう感じなければ、彼ら(経営者・資本家)の評価の為にいつまでも競争させられ続け、やりがいなど関係なく、福利(幸福)の為のはずなのに、義務感で出世する(=生きる)事になってしまうのだと思う。
(*代表的な思想が「色即是空空即是色」)
結局わたしの父もまた、このロバートキヨサキのお父さんの言う、”福利厚生の為に働く人”であり、セネカのいう”生きてない人”であり、ニーチェのいう”猿より猿”であったのだと思う。それを、ガン末期宣告を受けた後では”後の祭り”になってしまう。
哲学者も経営者も同じことを言っている
実のところ哲学者と経営者(及び投資家)は同じ部分を理解し、真逆の方向で実践しているだけのように見える。
経営者は、”『今月の売り上げ』というノルマ”を与え、達成による一時の高揚感と”(幸福と=ではないが)金一封”という報酬を与えている。
しかし、それで喜んでいるのは、紛れもなく貰う方(自分自身)であるのは事実であり、その金一封で欲しいものを買うのもまた”自分自身”だ。
すなわち、与えられる側は、生涯与えられて生活するのだが、そもそもそれを投資家や経営者が頼んだわけではなく、どうあれ自分自身で選んだことになる。
そこで得られるのは一定の給料や休日、保険などであり、それがまさに”福利だ”という事。
幸福と利益。希望どおりになって生活などが落ち着くようにすることと、その人のためになること。
引用:コトバンク
「鳥篭の鳥」で例えるならば、一番きれいに囀(さえず)れば丁重に扱われ、より多くの餌を与えてもらえるが、それはまさに運と競争の世界であり、囀れなくなれば価値もなくなり見捨てられてしまう。(事実、定年後にそのまま働き続けても、給料は下げられたりする。)
なので、生まれ持つ容姿などを含む運や、労働力で勝ちうる体格で劣る場合、それ(その仕事そのもの)に生きがいを感じないのならば、給料や、役職に生きても、将来幸福に感じるかは保証されているわけではなく、各人の問題になる。
やや話がずれてしまいそうなので、元に戻すと、投資家たちが『福利厚生の為に生きなさい』と言ったわけではなく、自分自身が『福利厚生に生きよう』と思った。という事実。
そして、その福利(要するに給料)を実際に与えているのは経営者(投資家)であるという事実。
しかしながら、実際問題、巨大グループ企業などを調べると、その多くがそもそも資産家の家庭であり、個人の努力で成しえているわけではなく、一般労働階級の家に生まれた多くの人は、一般的教育の中で、食べるため(生きるため)に”人の会社で働く道”しか示されていないので、そこから抜け出すのは特に至難の業になってしまう。
哲学者はその矛盾(のようなもの)を指摘するが、投資家・経営者たちは「(面接等で)あなたが働きたいと言ったでしょう?」と、”お給料で雇う”という結論を導き出している。
すなわち経営者たちが使う『君のおかげで社が潤う』等といった表現は、哲学者の言う『その生き方は愚か』と同じことを真逆に利用しており、出世した先に幸せを約束しているわけではない。
とはいえ、自分自身(雇われる側)がそれを幸福の対価としているのだから、経営者・投資家たちもウソはついていないことになる。
このように、哲学とビジネスでは同じ部分を指摘しているにもかかわらず、哲学(賢い人)では稼ぎ難いのは、(知識によって)人を非難・批判するからであり、、経営者たちが稼ぎえるのは、(どこから収入を得ているかは別として)ともかく、その収入の一部を労働者に還元するから労働もより意欲的になり、更に収入が得られる仕組みのように思う。
わたし自身はニーチェたちの言葉こそ毒舌でありながら優しい言葉なんだと感じるけれど、とはいえ、経営者のような人たちもまた、大衆を騙してはおらず、その大衆自らが”雇われたい・出世したい”と言っているのだから、事実として福利(給料)を与えている経営者たちの方こそ、現実的には労働者に貢献しているとも言えてしまう。
この結果から導き出すと、もし今現在”仕事が好きではない(本当に嫌だ)”とまで思うのならば、”福利”が成立しておらず、『福利を与える経営者側』か『「この会社で働きたい」といった労働者側』のどちらか(もしくはどちらともが)がウソをついてる事になる。
好きな事を仕事に
スティーブ・ジョブスのような世界屈指の経済的成功者もまた、「好きな事を仕事にしなさい」(何かの本で見た)と言ってるのだから、経済的成功者はウソをついているのではなく、すなわちこれは、”自身で判断したもの”と言うほかなく、「好きでもない仕事でもどうしてもやらなければならない理由」は福利を対価とした先に束縛されるもののように思う。
それに、社会では(特に学校では)不向きな事を頑張ることを美徳としていることが多く、、であれば、『碁打ちは野球を、野球選手は囲碁をやるべきだ』という理屈が通ってしまう。
しかしながら、それは考えずとも分かるとおり、”明らかにムダ”であり、やはり、自分の中で一番得意な事(人と比べてではなく)のほうが、自分のためにも社会全般のためにも大きな成果が出るのは間違いない。(自問自答:多分これは「功利主義?」的考えなのかもしれない。)
なので『好きな事をする』は絶対に必要な部分であり、それを始めた時やっと”苦しいこと”も”楽しい”になるのだと思う。
嫌いな事で起業する人なんてまずいないのは調べずとも間違いがなく、特に経営など学ぶ機会もない一般家庭の場合、ビジネス(特に今では某チューバー等のネットビジネス等)を始めてもうまくいかないのは”好きでも得意でもないのに、お金目当てで始めるから”ではないかと感じる。
ただ、『好きな事をする』とは、”悪いことでも好き放題できる”のではなく、社会に与える良い価値を伴って初めて好きな事から選べるのだと思う。
欲すればまず・・・
これは、”宗の教え”的なものではなく、結果論として、少なくとも給料が欲しいと思って働く人に給料を与える経営者はその願望をかなえており、与えた給料で何を買うかは個人次第になる。
当然、一生懸命に働いて得た給料なのだから、趣味〈バイクでもゴルフでもゲームでも〉に使うのは全く悪い事じゃない。
けれども、結果論として経済的成功者は、そのお金を自分の物欲等にではなく、人に与える事で労働者より得る事に成功しているという事実を見落としてはいけない。
そこには家庭環境、すなわち生まれた家庭が資産家かそうでないかにかかわる部分が大きいが、”給料を貰う人”より、”給料をあげる人”のほうがより稼げるという事実をまず知らなければ、いつまでも貰う方になってしまう。(それは福利であり、悪いとは言っていないが・・・)
それを哲学者が矛盾として指摘するように「生きてない」というか、福利を与えて、雇う側になるのも当然法律違反でもない。
ともあれ、経営者が労働者を褒めるのは、自分ではやりたくない労働の部分を代わりにやってくれるからであり、土木のような現場労働者に、年商ウン億越えの大手企業の経営者のような人が「所詮ブルーワーカー」などと馬鹿にするどころか「ご苦労様です」と労(ねぎら)い深々と頭を下げるのは、上述の事情により、本意からであって、これもまたウソからではない。
あとは雇われる側がそれをどう捉えるかなのだと感じる。
すなわち「君のおかげで社がウンヌン」という言葉の真意。福利と捉えるか、、、騙されてると捉えるか、、、
そもそも会社は経営者が好きで(利益目的であっても)興したものであり、労働者の幸せのためではない。だからこそ”福利”が存在し、そのために働く人がいる。
ただ、”摂る人”より”与える人”のほうが社会の役に立ち、”批判する人”より”肯定する人”のほうが人に好かれる。
そこが、資格をもつ稼げない賢い人と、資格などでは無く稼ぐ経営者側の違いなんだと感じる。
とはいえ、労働では稼げないということは無く、自分の才能が一番発揮できるものがどれかであり、
(力でも知識でも)労働力があれば、労働者として退職金9000万ドル(元Gグルの社員)という”最大限の福利”もありえ、、起業でこそ発揮する人は200億ドルもの資産を残す(某ジョブス)事もありえる。
それは、お金の価値ではなく、社会貢献の価値(地位=ステータス)が金額として表れているのであり、先にお金だけ欲しても資金力か余程の才能(及び運)が無い限り稼ぐのは不可能だと感じる。
だから、”もっていない”からこそ、まず先に、”欲すればこそ与える”しかないのだと思う。
貧乏から抜け出す方法の答え
上述を踏まえて(少なくとも私自身が)辿りついた答えは、、、
一般労働者の家庭に生まれると”より稼ぎがたい”のは、哲学者と経営者との違いのように、”真面目さ・(学歴的)賢さ”から来るものではなく、「資金がそもそも無い」という現実問題も大きくあるけれど、お金がないからこそ浅ましくなり、浅ましくなればなるほど私欲的になり、私欲的になればなるほど価値提供から離れてしまい、人に(特にタダでは)与えたくないのに自分だけは欲するから、より負のスパイラルに陥ってしまっているのだと感じる。
とはいえ、多くの人はそんな資金のある資産家ではないので、人に雇われて福利で生活するのが一般的になるのだけれど、「福利では幸せが叶わない」と思うのなら自分で作るしかない。かといって、人に給料を出す事などできない。
そのような、資金が無いのならなお更、お金を得るためには、私欲を出来るだけ切り捨て、人に役立てる事が必須であり、それをブログ(サイト運営)や、今ではユーチューブ等なら、少なくとも始めるのに資金が殆どかからないのだけれど、どの方法にしても、価値の提供でないといけない。(シンプルにいうなら価値の無い物は記事でも動画でも誰も見ない)
要するにその部分(価値提供の部分)を、お金のある資産家はお金で解決していて、その事を哲学者のような人が批判したりするのだけれど、再三になるが、これは法律違反ではない。
労働が報われないかどうかという問題は、福利が叶ってるかどうかであり、即ち、必ずしも労働だと報われないわけではない。とはいえ、これに漬け込んで、労働者に無理を押し付けてる企業が多くあるのも事実なのだけれど、雇われた側が、貰った給料で私欲を叶えているのもまた事実。(要するに、欲しいものを買ってるにもかかわらず、幸せに感じないのなら、”物質主義”に陥ってる。お金のために働くとそこに付け入られる。)
それはいけない事ではないのだけれど、私欲的なほど稼げないのはほぼ100%と言っても間違いないのだから、まずは損得勘定を抜いて、他者に、社会に、いかに良い価値を与えられるかを考えることが先決であり、そうして、お金がないのなら才能、才能がないのなら運、運がないのなら時間(即ち時間)をかけて、他者に良い価値を与えた先に”より大きな見返りも期待できる”のだと思う。(追記:「価値」に伴う「経済効果」)
おわり
『名ばかりの上場企業会社に尽くし、出世や肩書きに生きた結果、負債の責任を取らされノイローゼでガンになり、定年など迎える事無く早々に他界した父親』を持つわたしの場合、どうしても経営者がウソをついてるように感じてしまうけれど、
投資家・経営者は、お金の為に働きたい人に”自分の資金から給料を出している”のは事実であり、そうなる(↑)まで頑張れとは一切言われていないのも間違いない。
(少なくとも社会は、そういう”体裁のもと”で回っている。)
なので、お金を稼ぎたい(欲しい)と思うのに、自分で頑張るのが正しく、逆に、経営者のようにお金で解決(雇う)するのはズルいと思うのなら、物事を取り違えてしまっている(「収入を得るのに”(資本主義)経済の仕組み”を否定するのは矛盾している」に言い換え)と思う。
わたしの両親は、その年代にしても特に貧しい子供時代を生きていることもあり、そのような両親の教育は、(私だけでなく)多くの場合、生粋の”プロレタリア根性論(≒労働の美徳)”のようなものを叩き込まれてしまう。
だが、徐々に大人になっていくと、実際は、上述のように、出生から優遇されたものが起業家・経営者となり労働者を雇っている事が見えてくるようになる。
それがわかってきた時、”お金持ちはズルイ”と言ったような感情に陥ってしまうのだが、それは、すなわちニーチェの言う”ルサンチマン”であり、それでは自分の人生が決して良くはならないのはニーチェが言ったかどうかなど関係なく事実なので、そのような意識から脱却する必要がある。
すなわち、結婚をし子供を授かり、家や車などの高額なローンを組み生活するなら、最低限(むしろ多くの)お金が必要になるのだから、その全てを(とまでは言わないが)切ってでもやりがいの感じることをやるか、福利による安定を取るかは自身の置かれた環境で決めるしかない。
なので、労働を辞めたいと本気で思うのなら、まずは他者と比較するのはやめて、資金の無いものが収入に囚われる事無くやりがいを感じる事を行うには、多くの欲(奢侈)を切った上で、時間や誠意を込めて社会に良い価値を提供するしかないのだと思う。
201128_編集 201215_編集 201224_冒頭追記、一部編集 210313_加筆 210124_編集 210609_加筆編集 210718_加筆編集 211030_後半一部変更 220413_後半編集 220727_清書 230130_補足追記 2401_句読点 2405_加筆編集 2410_冗長分削除等 *全て内容の変更は伴わない