【ベトナムで阿部定事件】暴力解決を容認してはいけない理由

ライフログ
スポンサーリンク

昔、安部定事件というのが日本に合ったようで、古すぎて詳しく知らないのですが、どうやら旦那のアレを妻がチョッキンした事件(アワワ)のようですね・・・

先日ツイッターをみていたらベトナムでも同様の事件が発生していて、どうやら妻の釣れ子に性的暴行した旦那のアレをやはり妻がチョッキンしたそうで、、リプ等に「やられて当然」と言ったものも多く見受けて、それについての”反論”というつもりは無いけれど、”単純に容認してはいけない”ということを書きたくなった。

スポンサーリンク

法治社会において”敵討ち”をしてはいけない理由

まず先に語弊の生じないように言っておきたいのは、”上記犯人を一切容認してるわけではないという事と、被害者及び関係者の気持ちを蔑ろにしてるわけではない”という事を前提に話を進めさせていただきます。あと、この件に関しツイッターの方にも3リプに渡り書いたのですが、あれには次数制限もあり全部書ききれなくて、、かなり被る箇所もあると思いますがご容赦で。。

 

上述したように「犯人を容認するわけではない」という大前提なのですが、

時代劇なんかでよく「父のカタキ!!」といったシーンを見ることがあるけれども、今現在日本を含む多くの法治国家で禁止されている。

その理由は単純で、例え心底憎い相手だったとしても、法治の上ではその相手の処分は法に委ねなければならないからだ。

 

例外としては、例えば、家に強盗などが侵入してきた場合、彼らを「刑法第何条だよ!」といってもその場で退(しりぞ)くことができないし、通報しても警官の到着に時間がかかるので、このような場合は”正当防衛”として自らで自らを守る権利を有している。が、基本的には自らで対処するのではなく、法律に委ねなければならない。

当然、その法も国によって様々である事からもわかるとおり、まだ完璧ではないところもあるかもしれない。

けれども、これは当然理由があって、被害関係者の気持ちは計り知れないけれど、かたき討ちを容認してしまうと、より強い方が正義と成ってしまい、それは、決闘と称し相手から金品を強奪に近い方法で一財を築いたといわれる中世の騎士『鉄腕ゲッツ』にも表れており、強ければ勝ち(勝てば官軍)になってしまう事に問題があるから、人は数千年という時間をかけて模索し法治社会という道を見つけたのです。

 

語弊の無いよう何度も言いますが、犯人を容認するわけでも、被害者を蔑ろにしていいといってるわけでもなく、被害者の気持ちとして「暴力で解決されても当然」というのは、気持ちとしてはわかるのですが、、

暴力での解決を認めてしまうと言う事は、「お前がハサミ持つなら、おれはナイフ」「お前がナイフなら、オレはカタナ」「お前がカタナなら、オレは銃」「お前が銃ならオレは・・・」となってしまい、結果として、自分の意見を通すため武力行使で攻め入る事(どこぞの国)を容認することと同義だと言いたいのです。

だから、例のプさんも武力行使などという方法が言語道断であり、意見があるのなら対話で望むのが法治社会であり、それが少なくとも今日の人が到達したあり方でなのではないでしょうか。

共感性について

ピーター・シンガー著『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ』という本の中で、”より効果的なチャリティのあり方”と言った感じの内容が書かれてあったのですが、

それによると、チャリティのパンフレットに「寄付金の○%は□△に使用され、それによる年間の効能は×%となってます」といった重要な情報が書かれてあるものより、

単純に”汚れた格好の子供が涙を流してる写真”の載ったパンフの方がよりチャリティが集まるという結果がわかった。というようなことが書かれてありました。

 

あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ【電子書籍】[ ピーター・シンガー ]

感想(1件)


AMAZON

 

その理由は、これに書かれてあった内容によると”多くの大衆は目の前の問題には共感できるけれど、データに共感できる人は少ないから”(意訳)という事だそうです。

 

これはどちらの方が頭がいいと言った話ではなく、単純に多数決に近い話であり、すなわち、上記のいう大衆の感性を持ち優秀な人もいれば、そうでない人もいるし、

逆に大衆ではない方も、目の前の人に共感できないわけではなく、それと同様に今見えてないものにも共感してしまうので、結果データを頼っている。という感じなのだと思う。

それは昨今の例の露問題に「ウクの人可愛そう」と言う心理も同様で、私はこれを「かわいそうじゃない」と思っているわけではなく、それは以前からも常に様々な国で日々起こっていた事で、当然”差し迫って”という事なんでしょうが、だったらそれこそ、例の露問題以前から世界中で起こっていることではないか?と思うのです。

ですが、多くは目の前の問題に共感するようにできている。

なのでそれは上記の”チョッキン”に関しても同様で、その事柄のみを見て私は「やられて当然」と単純に言えないのです。

終わり

なんだか話がずれてるようだけれども、話を戻すと、多くの人がチョッキンを容認する(及びイイネ)のは、上記の”涙を流す子供”と同様、通常多くの大衆に見られる反応なのでしょうが、その件が例の国のプさんまでも認めてしまうことになると理解する必要があると思うのです。

こういったことから私が「チョッキンされて当然!(イイネ!)」に単純に共感できないのは、私が”恐らく99.9%ASDである可能性”と関係しているのでしょうが、決して犯人を認めてるわけではなく、それは、すなわち暴力容認に繋がり、結果として例の国の武力行使をも認めることに繋がると思うからです。

どう感じるかは人それぞれですが、人の世が数千年かけてようやく”法治社会に到達した理由”も一緒に考えてほしいと思います。

罪を憎んで人を憎まず!!~孔子~

タイトルとURLをコピーしました