肉体労働では幸せになれない本質的理由
ここからが今回の本題。
”なぜ、肉体労働では幸せになれないと思ったか(少なくとも私は)”の解説に入っていこうと思う。
労働収入は資本主義における重要な部分ではあるが、価値による収入(価値を産み出したり、既存の価値を更に高めたり)とは少し違う。
中でも肉体労働は、収入を上げる方法が体力の有無に偏ってしまう。
労働収入は「お金になる価値を作り出した人(要するに会社)」から作業の対価として払ってもらっており、作業自体が直接お金になるわけじゃない。
土木でいうなら、「コンクリートの穴あけの相場が1本いくら」とかあったりするのだけれど、それはその金額で交渉し成立したらの話であり、勝手に機械を持っていってどこかに穴を開けたってお金はもらえないのは当然。
それならば、「営業マンはお金を生み出している」という事でもなく、その営業マンもまた、結局その「交渉そのものをお金に変えた人(会社)」から支払われており、会社社長でさえ実際は会社からの給料で支払われていて、大きな企業になると社長も雇われていたりする。
でも、それだけ大手になると、さすがに社長も給料制といっても単位が全然違うだろうし、、という別の話になるから戻します。
やりがいも感じない仕事で働くのなら、最低限給料が良くないとやってられなくなる。
けれども、極端に労働収入に偏った肉体労働で給料を上げようとすると、かなり早い段階で限界が見えてくる。
「どうやったら利益になるか?」は簡単な話ではなく、フォードの創設者ヘンリーフォードも「考えるのが最も過酷な作業」といってるように、『どうやって利益を生み出すか?』を考えるのは非常に難しく、結果も簡単には出ない。
『学歴が無いなら肉体労働』と、安易な理由で親や親族から言われたわけだが、それは明らかな間違いがあり、誰しも好きな事を仕事に出来てるわけではないけれど、”学歴あれば好きな事が仕事に出来る”というわけでもないのは社会の成功者を見れば、はっきりしてる。
肉体労働で労働時間いっぱいいっぱいで働けば、表面上の給料が多少良く見えても、日々クタクタで、考える余裕もなく、次の目標の準備することさえできなくなる。
それでも社会がうまくいってる構図は、文句を言わない作業員(学力は低かったかもしれないが、知性がないのではなく、そこにアイデンティティを感じているから)が働き続けるところにあるように思う。
労働の対価で収入を増やそうとすると、単価が上がらなければ、労働時間を増やすしかなくなる。
けれど納期に追われるのが当然の仕事では、土木に限らず、すでに労働時間いっぱいいっぱいで殆どの人が働いてる。
例えばエリート大出た人が入社できるような大手なら、彼らは夕方5時には帰宅できるのかというと、そんな会社のほうが少ないと思う。
エリートだからこそ会社にとって重要な人材になり、重要な人材だから責任のある仕事が任せられる。
そんな重要な人材が、人より先になんて帰れるわけがない。
限りある時間の中で自分のためになることをこなさないと、いつまでも会社のための事だけで時間がなくなってしまう。
概ね大卒が給料がいいのは学歴によるものだけれど、みずからお金を生み出していなければ、仕事に好き嫌いが言えなくなるのには違いがない。
学生時代に学んだ知識によって、お金を生み出す人(会社)から給料を得る事はできる。ならそもそも”お金を生み出す人”は極端に頭のいい、一流大学卒なのかというと、そうとは限らない。
要するに自分の時間をうまく使い、ただの作業を価値に変えて、うまくお金に変換する事に成功した人たち。
作業をお金という対価で支払って貰うのだから、そもそも給料が上がらない。
でも自分で価値を作り出すのには相応の時間がかかる。
それがうまくいくかどうかの前に、体力的にも大変な仕事に就き、帰宅後よる9時すぎ、そこからさらに価値を作り出す作業にあてるのは現実的に難しい。